自叙伝書写礼拝開催(陽暦2020年9月20日)

【自叙伝書写礼拝のみ言】

天一国八年天暦8月4日(陽暦2020年9月20日(日))

講演タイトル:「 ためらいなく与えて忘れる 」
講演者:浅川 勇男 先生
インターネット中継にて「浅川勇男先生をお迎えして 自叙伝書写礼拝」(自叙伝書写会)を開催しました。
講話のPDFは会員ページよりご覧ください。
<浅川勇男 先生の講話>
 多摩東京教区の皆さんこんにちは浅川勇男です。よろしくお願いいたします。書写をするみ言は「ためらいなく与える」ということであります。このためらいなく与える。この事に関して今日は幸せの種まきというようなお話をしてみたいと思います。植物、これは人生をある一面現しています。単純なことです。種を蒔いたら芽が出る。芽は育って花が咲く。そして、実を結びます。まことに単純明快です。種を蒔いたら芽が出て、そして、花が咲く。実が実る。ですから種をまかないないなら絶対に芽は出ません。花が咲くわけがありません。幸せになるためには、同じ原理からいうと、幸福の種まきが必ず必要なんだ。幸せになりたいなら、これは花であります。あるいは実と言ってもいいでしょう。幸せの花、満開の花を見たいなら幸せの実を身につけたいなら、あなたは種を蒔きましたかと。幸せの種をまいていないのに、幸せの花が咲く訳がありません。意外と人は、種をまかずに幸せの花だけを求め、さらに幸せの実だけを求めている傾向があります。なれない、なれない、なれないと言って落ち込んでいる場合があるのです。幸せの種をまくということ。
 では一体人間の幸せにとって植物の種まきと人間の幸せの種まきはどこが違うんでしょう。この違いの分かる人が、間違いなく幸せの花を得ることができるし、それを楽しむことができるはずです。種をまくということは、尽くすということ、与えるということ、愛を実践するということだと思います。普通これが種まきになります。だとすれば、人に尽くして、愛して与えたなら、それは芽を出し、やがて幸せの花を開くはずです。夫婦の場合、妻が夫に尽くす、夫が一生懸命働いて給料もらってきて妻に与える。尽くしました。与えました。お父さんお母さんが苦労しながら学費を払って、子供を学校に出してあげる。子供に尽くしました。苦労しました。だったら尽くした分の花が子供に間違いなく咲きますか。奥様がご主人に尽くした分だけご主人は感謝して奥さんを大事にしてくれますか。もしそうだったら、この世の中に夫婦の葛藤、対立、親子の対立などあるわけはありません。不幸など存在しないはずです。膨大な披露宴と結婚資金を投入して、あえて不幸になるために結婚する夫婦がいるでしょうか。陣痛の痛みを越えて出産費用を出して、あえて親子関係が苦しくなるような、お父さんお母さんがいますか。でも結果はそうなっている場合が多いです。尽くしました、愛しました。だけど、幸せなの花は開いておりません。
 なぜなのか。幸せの種まきというのは、人間の場合、植物とは違うんですよ。植物はまけばいいんです。地に。ところが人の場合、種の蒔き方があるんだと。それが与えて“忘れる”ということなのです。尽くしてそのことを“忘れる”ということなんです。種をまいたということは、まいたことを忘れちゃうことなんだと。与えたことを忘れ、尽くしたことを忘れ、何にもしなかったような人になる。だからまた与え、また尽くす。そして、本当に謙遜になる。多くの場合、人間には煩悩があります。ですから人は、人に尽くし、愛し、何かをしてやった場合、してやったぞという思いが、自分を高め、実は心の底で自分を誇りあげ、偉い人間だと思い込み、与えられる人を見下し、低く見てる場合もあります。尽くしてやった、与えてやった、深く忍び寄る人間の思い上がり、思い上がった人に幸福の花が開かないんだと。どこかで散っていきます。種は撒くそれだけです。
 しかし、人は、尽くして忘れた時、初めて幸せの種を蒔いたということになるんだと。与えて忘れた時、与えたことになるんだと。頭の中に尽くしたという記憶がゼロになる、消滅した時、与えたんだと。尽くしたという記憶が頭の脳裏から記憶になくなった時、尽くしたと言うんだと。まさに記憶にございません。記憶にございません。自分の持っている大切なものを与えた。自分が本当に尊い時間を削って、その人の幸せのために尽くした。でも記憶にございません。何も覚えてない。だからまた尽くしていく。自分って本当に人に尽くしていないな。その心は自分を謙遜にします。そして、身を下げます。尽くしていない人は謙遜なのです。そういう思いになった時、相手の心に花が開くんだと。そして、相手に実を結ぶんだ。ですから、この人間の場合の愛の種撒き方、これは愛して忘れるということ。愛は尽くして忘れるということ。これが人間の持つ愛の種まきなんだと。
 韓鶴子夫人はこう言われています。私は与えますが、尽くしますが、ためらいなく与えます。ためらいなく尽くし、与えると同時にそれを忘れますと言われます。ですから尽くしますが、ためらわない。ためらわずに与えて、そして、忘れるんだと。ためらって与えたものは記憶に残ります。どうしてためらったんでしょう。もったいない、与えるものに執着心がどこかある。それと本当にこの人に与えたら、結果が出るのか。与えた見返りが返ってくるのか。心の奥底に要求心があります。何かを要求して与える。見返りを期待して尽くす。それは種をまいていないのではないか。韓鶴子夫人は全く違う。鮮やかで見事な尽くし方をします。ためらわないんだと。一瞬もためらわずに、可哀想な人がいれば、すぐ与えていく。ボロを着た人がいれば、良い服を与えてあげる。貧しい人がいれば、すぐに食物を与える。そして、そのことを忘れていく。そういう方なんだと。
 文鮮明先生は、こう言われています。自分の妻はとても情け深い人だと。その思い出を語られたことが、『平和を愛する世界人』に記されております。結婚した時に、それ以来、尊い指輪を買ってあげられなかった。そういうことが心のどこかの負債になっていた。オランダに行った時、思い切って高価な指輪を買われたそうです。そして、それを奥様にプレゼントしました。ところがある日、奥様の指を見るとないじゃないですか。それでどうしたんだと言ったら、どうにもこうにも、どこかに流れていきましたよと。誰かにあげましたという意味なのです。普通のご主人なら、カッとくるでしょう。高価なもの、お金を出したもの。それを誰かに行ってしまったと言ったら、それだけでカッとくるでしょう。私が思うに、それを奥様から聞いた時、夫である文鮮明先生はにっこりされたと思います。本当にいい奥さんだなと思われたと思います。愛が深い。本当に愛が深いなと尊敬したと思います。ためらわずに与えるということ。簡単ではありません。常にそのような心がけと常にそういうような愛の実践をしていないと、そして、ためらわずに与え、与えて忘れるということが、もう魂の根になっている。根性になっている。それが生活になっている。そういう人になっている。そうしない限り実践はできないはずです。
 この世界の中に実践している人がいます。山にこもった聖人、修行者ではありません。もちろんそういう方も煩悩脱却して、ために生きて忘れるという根性を持った方もいらっしゃるかもしれません。でも家庭を持ったこの社会の中でたくさんいるんです。実は、それがお母さんです。母です。お母さんってどういう人なのか。ためらいなく子供にお乳を与える人なんだと。それがお母さんです。お母さんは子供を産む。そして、子供に自分の体、その全て栄養素を与えてきます。これがお乳というものです。それを与える時に、ためらいますかと。この子に大切なお乳を与えて、もったいないとか、あとどれだけ残っているんだとか、本当にこの子にやった分だけ見返りがあるの。今日はちょっとやめとこうか。少し差し控えようか。そして、与えたお乳の量を毎日電卓、パソコンに入れ込み、そして、記録してデータ化し、この子が育った時に、あなたにこんなにお乳をやったんだよ、などと言って、少しは返しなさい。この哺乳瓶の何百本の代金を返しなさいよ、などと要求するお母さんがいますかと。ためらってお乳を与えるようなお母さんはおりません。
 ですから、ためらわずに与えるということは、母の愛なのです。そういう愛情をもって平和の母、韓鶴子夫人は、私たちに愛を与えてくださっている。韓国の方ではありますが、日本人である私たちにも国籍を越えて、民族を越えて、人種を越えて、自分が産んだ子供だと情的に思っておられ、そして、ためらわずに愛を与えてくださる方です。日本だけではもちろんありません。最近はアフリカでも本当に苦労に苦労を重ねてきた皮膚の色の黒い黒人の方々、どんなに切ない、悲しい歴史を辿ってきたかわかりません。そういう方々の一人一人を母の愛情をもって抱きしめ、そして、愛をふんだんなく注いであげる。まるで愛の母乳を注ぐように注いであげます。母の愛は、無私、私がありません。そして、無条件、条件はないのです。真の愛には条件はありません。結果が出ようと出まいと、愛した人がそれだけ立派に成長するかどうか。与えること、与えることが大切なんだと。そして無償であります。償いは何も期待いたしません。条件、無私、無償です。これが母の愛なんだと。そういう母の愛で限りなく尽くしていく人。それが平和の母なのであります。
 私たちは、なぜ心が、魂がこの平和の母のみ言をたった一行でも読むと心が感動するのか。震えるのか。喜びが来るのか。それはお母さんから愛されたからです。そして、無私、無条件の愛を受けたからです。言葉は言霊であると言われます。言葉は目に見えません。その言葉に深い愛情が込められています。母の愛が、私たちを本当に幸せにしようとする真の母の愛が、この言葉一つに込められているのです。ですから、この言葉を私たちが筆を取って、そして、白い紙、これに書き写し、そして、それをまた目で見ます。白い紙はあなた自身の魂です。今のままでは現実襲いくる夫婦関係や親子関係や経済問題や人間関係を越える力がない。既に絶望している。既に落ち込んでいる。既に行き詰っている。今のあなたのままでは問題は解決しない。だから、変わらなくちゃいけないんだと。魂が、心が変わらなくてはいけません。何か落ち込んだ自分の心、いじけた心、どこかひねくれた心、先の見えない心、絶望だと思う心、自分で自分を尊敬できない心、人を憎む心、恨む心、信じきれない心、その心を変えなくてはならないと。信じられない私が信じられる私に生まれ変わる。人を許せない私が許せる私に生まれ変わる。人を愛せない私が愛せる私に生まれ変わる。生まれ変わりが重要だと。生まれ変わる、生まれ変わる、それは母が愛でなします。いかなる人間もお母さんの胎内から生まれてきたじゃないですか。胎内から生まれるのです。魂も。ですから、平和な母の愛に抱きしめられて、そして、平和の母の愛の胎内からもう一度生まれ変わるんだと。そして、新しい自分に変わる。今の私が行き詰っているんだとすれば、新しい私に生まれ変わって、行き詰まらない私になる。現実に難しすぎると、自分の思っている人間関係に立ち向かっていく私に生まれ変わる。そういう私に生まれ変われば、現実は変えることができます。
 ですから、平和の母の愛のみ言を通し、そのみ言を自分の魂に書き写しながら、平和の母から愛されて、そして、生まれ変わるんだと。これが自叙伝『平和の母』、書写の真髄です。ですから、書いたことが、その積み重ねが、その事実が、重要であることではなく、これを通して生まれ変わったかどうか。心情が、愛が、人格が生まれ変わったかどうか。新しい自分に変れたかどうか。そして、自叙伝の書写を通して、新しい自分に生まれ変わり、現実に挑戦する自分自身に生まれ変わっていく。そして、問題を解決する。この結果を生み出した時、自叙伝の書写をしたんだと、こういうことになります。ですから、今日のみ言は、平和の母の真髄です。ためらわずに与える。ためらわずに与えるという言葉を毎日繰り返しながら、自らの魂に刻み込み、躊躇して与えてきた自分、ためらいながら与えてきた自分、与えたらそれをしっかり記憶に残し、要求し、それを不平不満に思い、見返りがない時に憎しみ、人間関係を上手くいかなかった自分自身、それをもう一度ゼロに戻って、そして、生まれ変わる。ためらわずに与えて忘れる人に変わる。これがこの自叙伝書写、「ためらわずに忘れる」の大きな意味になります。是非この「ためらわずに与える」を皆様が真剣に書写しながら、本当に新しい自分に生まれ変わって、真の幸せを掴まれることを祈願いたしまして、私の講話にしたいと思います。どうもありがとうございました。

【 ためらいなく与えて忘れる 】
 私は与えるのもためらいなく与えますが、与えると同時に、そのことを忘れてしまいます。自分が持っている物を与え、愛を与え、さらには命まで与えても忘れる人が、神様の一番近くに行くことができるのです。
 私は足が腫れ上がるまで世界を回り、女性の真の価値と使命、神様の愛について伝えました。それは人々が神様を知らず、真の父母を知らずに、天涯の孤児になることを防ぐためでした。
 真の父母に侍って生きるとき、すべてを失った孤児の立場から抜け出し、本当の幸せを手にする神様の息子、娘となるのです。(人類の涙をぬぐう平和の母P.186)

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