自叙伝書写礼拝開催(陽暦2020年8月16日)

【自叙伝書写礼拝のみ言】

天一国八年天暦6月27日(陽暦2020年8月16日(日))

講演タイトル:「 忍耐という苦い種が、光り輝く誇りとなる 」
講演者:浅川 勇男 先生
インターネット中継にて「浅川勇男先生をお迎えして 自叙伝書写礼拝」(自叙伝書写会)を開催しました。
講話のPDFは会員ページよりご覧ください。
<浅川勇男 先生の講話>
 浅川勇男です。よろしくお願いいたします。今日は『忍耐という苦い種が、光輝く誇りとなる』という平和の母、韓鶴子夫人のみ言を題名にお話をさせていただきます。「幸せになりたい」これは誰しもが願う強い願望です。願いどころか、人生=幸福になること、端的に言えば、それだけであります。ではどうしたら幸せになれるのか。どうしたら幸せになれるのか。そのことを私たちは自然を通して学んでいます。自然の営みは、幸福になることを私たちに教える真の教師と言っても良いのではないかと思います。花はどうして咲くのか。秋に咲く花、夏に咲く花、咲いた時が幸せの時であります。花でなくても、稲が実る、柿がなる、桃がなる、これがそれぞれの果物や花の幸せな時と言えるでしょう。ではどうして柿が実り、花が咲くのでしょう。単純な原理です。苗を植えたからです。種を蒔いたからです。種を撒くことをしない限り、絶対に花は咲きません。芽も出ないでしょう。苗を植えなければ、木は根付かず、なるという柿や桃の実を実らせません。単純なことです。幸せの苗を植える。幸せの種を撒く。それをしていないのに、秋をずっと待って、収穫を待つ。ありえない話です。種を蒔かないで、苗も植えないで結果は絶対出ません。それは自然が教えてくれていますし、常識であります。
 幸せも同じです。幸せを実らせる。幸せの花を咲かせる。それが50、60という人生の秋になるのか。あるいは、40代、50代に咲くようになるのか。人の人生にとって咲く季節は違ったとしても、共通しているのは、幸せの苗植え、幸せの種蒔き、これをやって、大切に育てて、芽が出て、育つことを、栄養やる、水をやる、育ててこそ幸せになれます。これはもう同じことなのです。ですから、幸せになりたいなら、幸せを得たいなら、とにかく幸せの苗を植える、幸せの種を撒く、撒けば撒くほど可能性は増えます。苗を植えれば植えるほど、幸せの可能性は増えていくわけです。撒いたものが、全部花が開くとは限りませんが、撒かない種は決して芽さえ出ません。大概の場合、幸せの種蒔きというのは、自分のために生きるということはほとんど種蒔きにもなりませんし、自分のために生きたことは苗植えにさえなりません。誰かのために生きる、誰かのために尽くす、それがやがて幸せの花となって自分に返ってくる。人生の道理と人間関係の道理は誰かのために尽くす。これが幸せの種蒔きです。誰かのために与えていく、これが幸せの苗植えです。そして、その人が本当に喜んで、お返しがかえってくる。これが人間が幸せになる道理と言っても過言ではありません。
 与える、尽くす。その時に、与えることが嬉しい。尽くすことが感謝。通常、種を撒くのは、秋になったら花が咲くだろうな、夏になったら本当に素晴らしい花が咲くだろうな、秋になったらたくさん実るだろうな、という希望を持ちながら、喜びで苗を植えたり、種を撒きますから、通常、幸せの種蒔きというのは、喜び、感謝が伴います。ところが今日は、ちょっと味わいの違う言葉です。忍耐という苦い種蒔きと書いてあります。種を撒く。ところがその種蒔きには、苦い思いをするんだ。決してさわやかではない。明るくない。喜びで溢れるというわけではない。ちょっとした苦味がある。ちょっとした辛さがある。苦い種蒔きというのがあるんだ。その種蒔きの名前は忍耐と言います。忍耐という名前のちょっと苦味のある種を撒く。その時は、確かに辛いし、良い思いはしないかもしれない。でも、撒いたらすぐ実る、撒いたらすぐ花が咲くなんていうことは自然にさえありません。やっぱり時間が必要です。かかっています。春撒いて、夏を経由して秋に実るのです。その時、ちょっと苦い種を撒く。それは忍耐という名前なんだと。忍耐とは何か。思い通りにいかない。決して尽くしたとしても、すぐにありがたいと言って、人は喜び勇んで感謝をするわけでもない。ずーっと尽くし続けているのに、何一つありがとうという言葉は返ってこない。そういう場合だってあります。ですから、種を撒くということは、苦い時もあるし、思い通りでない時もあるけど、だけど撒き続けるんだ、忍耐するということであります。それがやがて時とともに、実に味わいの深い果物になり、鮮やかな花を咲いてくる。苦い忍耐という苦い種蒔きというものがあります。
 これについて私は、最近ある小説家の生涯を読んで、本質的にはちょっと違うかもしれませんが、それを感じた皆さんもご存知の有名な小説家がいます。この方は1960年代、芥川賞とり、一世を風靡した小説家です。『どくとるマンボウ航海記』と言います。作家名は北杜夫さんと言いました。とにかく書いた本はどんどん売れ、そして、多くの賞をもらいました。彼は84歳まで生きました。ところが、ある年から1年に1回うつ病にかかるそうです。そういう風になったそうです。躁病といううつ病です。すると人が変わってしまう。ある時、彼はうつ病にかかりました。人間がガラッと変わりました。日頃はとってもおとなしくて、いい人だそうです。それが人間がガラッと変わってしまう。ある時にこう言ったと、奥様に。俺はチャップリンに勝る凄い映画を作るんだと言い出したそうです。彼は映画を制作などしたことがありません。しかし、理性がおかしくなっていますので、チャールズ・チャップリンを凌ぐすばらしい映画を作るんだと絶叫を始めたそうです。そのために、金を作ると言ったそうです。その制作費は数億円かかるんだ。それを株で儲けると言ったそうです。株に手を出しました。しかし、彼は小説家であり、経済の観念や、やりくりや、ましてや株の動きなどほとんど知らないんです。それを株に手を出す。証券会社に毎日電話をし、株を買う。たちまち全財産を失いました。家を抵当に入れたんです。一文無しになりました。それでもやめません。
 奥さんは本当に苦労されたそうです。そして、少しでもあなたそれは少しやめたほうがいいんじゃないかと助言をすると怒る。そして、馬鹿野郎と怒鳴るそうです。あるいはひっぱたいたりしたかもしれません。そして、お前なんかに小説家の何がわかると言い、家を出て行けと言ったそうです。それぐらい激しく言いました。そして、さらに毎日の新聞の裏に毎日妻の悪口を書き続けたそうです。それこそ馬鹿にして、卑下して、そういう言葉は毎日新聞の裏に書き続けたそうです。そういうことは年に必ずあったんです。通常ならとても夫婦はやってられません。通常の夫婦なら別れるでしょう。どうやら周囲の人は離婚を進めたそうですよ。でも奥さんは忍耐し続けたんです。夫婦円満の夢を追いながら、種を撒き続けたようです。種を撒くというのは、気候が温暖で、とても環境の良い時、種を撒くという場合もあるでしょう。だけども、大雨の日、暴風の日、どう考えても育たないだろうという日に種を撒きますかと。あるいは洪水、あるいは地震、色んなことがある時に種を植えますかと。奥さんは偉かったです。妻を馬鹿にし、出て行けと言い、毎日新聞紙にもう一言聞いただけで傷をつけるような言葉を彼は書き続けたそうですよ。だけど奥様は実に愛があったようで、娘さんの証言によると、お母さんは、その妻への悪口を書いた新聞紙、毎日彼は書いて捨てるんですよ。それを奥さんは全部拾ったそうです。そして、裏を見れば、妻に対する悪口、陰口、悪口雑言が書いているから、一言だって一生忘れられないほど致命的な言葉が書いてあったようです。でも奥さんはこれを大事にしたそうです。そして、子供に娘に言ったそうです。この言葉が娘の生涯に残っていくのです。お母さん、どうしてあなたは離婚しなかったのと娘は聞いたそうです。そして、その新聞紙をどうして集めるの、お母さんと自分の嫌な事が書いてあるんでしょう。普通だったら捨てちゃうよと。見たくもないでしょう、と言ったそうです。お母さんはこう答えたそうです。あの人は、パパはと言いました。パパはとってもいい人なんだよと、パパはすごく良い人なんだよと娘に言いました。この新聞紙はねと、大切なパパの書いたものだから尊いものなんだよ。だから、全部集めていくんだと、そのように娘さんにお母さんは言ったそうです。そういう姿を見る娘さんは泣きました。
 これだけ酷い目にあって、めちゃくちゃなことを言われても、夫を愛し続けていく。全く不信をしない。まるで奥さんなんだけど、お母さんのようだ。どうしてそんな風な境地になれたのと、娘さんはしみじみママ、お母さんに聞いたそうです。お母さんはこう言いました。お父さんは年に1回ああなるけれど、とってもいい人なんだと。私は愛しているんだと。そして、ある人からアドバイスを頂いたんだと。私だって悩んだと。その時、アドバイスをしてくださった方が、こう言ったんだと。夫がうつ病にかかったとき、夫と思わない方がいい。その人のお母さんになりなさい。看護婦になりなさい。看護師になりなさい。妻だと思ったら腹が立つでしょうと。だけども相手はうつ病にかかった患者なんだから、あなたはどんなことでも受け入れて、抱きしめて、そして、治療してあげる、妻という名の看護師なんだよと。そして、母親でもあるんだと。こうアドバイスを受けたようであり、それがぐっとお母さんの心に入ったようです。ですから、忍耐し続けたのです。忍耐とは、愛がなければ忍耐に花は咲きません。愛のある忍耐は必ず花を咲かせます。人を不信して、ただ我慢しているだけの忍耐は、何にも結果は出ませんけれど、信じ続ける忍耐は、必ず実るんだと。ですから、どくとるマンボウのお母さんは、奥さんは、愛の忍耐をし続けたのです。そして、彼が正常に戻ると、とっても良い夫婦円満の姿を実現したということなのです。
 どくとるマンボウさんは84歳でお亡くなりになりました。一回忌が過ぎ、2回忌、3回忌と故人を偲ぶ会が行われました。3回目ぐらいから集まって来る人たちは、一世を風靡した人気作家としての北杜夫さんの話題よりも、忍耐し続けた奥さんの方の話題の方が多くなったそうです。そして、娘に言ったそうです。お母さんは立派だったねと。あなたのお母さんは偉かったよと。素晴らしい人だねと。口々にお母さんを湛えたそうであります。それを娘さんが記録しております。娘さんの心の中に残ったものは、やがてお母様はお亡くなりになりましたが、立派だったんだなと。毎日毎日、まぶたを閉じれば浮かんでくるのは、妻に対する悪口を書き記したその新聞紙をせっせせっせとかき集めていた、お母さんの姿だったそうであります。苦い種というのは我慢ではありません。愛です。愛があるから忍耐するんだ。信じているから忍耐するんだ。しかし、今はまだその結果が出る時ではない。一つの言葉でカッときて、そして、言い返す、そっちの方が簡単なんです。忍耐するのは心を磨くことであり、修行であり、愛です。愛がなければ、言われたら言い返す、もっと酷いことで言い返す。怒りのままに口に出し、忍耐なんか全然しない。もう怒りは怒りで表現する。そういう生き方もあるでしょうが、幸せなどなれるわけがありません。第一、種を自分で潰しています。苗を自分で引っこ抜いて捨てています。幸せの種蒔きは、時としてすぐには花を開かない時もあります。防風の中で枯れそうになる時もあるでしょう。でも愛があるから忍耐するのです。時を待つのです。
 平和の母をお書きになられた韓鶴子夫人は、愛の忍耐の人でありました。愛の忍耐ができない人はお母さんなどなれません。母とは愛の忍耐をする人です。もうそれは妊娠して、赤ちゃん産んで、これをあやしている時から、もう愛の忍耐は始まっています。戦場で多くの行った兵士が最後に口から出す言葉は、お母さんだそうです。それだけ愛されたからです。いつ愛されたのか、生まれた時、自分の意識がない時です。もう泣きじゃくり、そして、喚き散らし、もうおしっこをする、大便をする、やりたい放題でありました。それをお母さんは、ずっと忍耐してくれたのです。お母さんに忍耐がなければ、赤ちゃんを引っ張ったくか、首を絞めていたでしょう。ですから、母とは、愛の忍耐の人なんだと。先程の北杜夫さんの奥さんは、それをご主人にしたのです。ご主人の母になったのです。
 平和の母、韓鶴子夫人は不鮮明先生が40歳の時にわずか17歳で奥様になられました。もうその時、たくさんの女性たちがいたのです。40歳、30歳、20代後半、私こそ40歳の文先生の妻になると思い込んでいた人もいたようです。あるいは私こそはと思っていた人もいます。常識的に、17歳の方が40歳の方の奥さんになるということは通常は考えられません。しかし、天の神様の配慮というのは、先の先を見通して結婚の導きを成しておられました。17歳で奥様になられた時、全ての人がよかったねと心から祝福したわけではないのです。自分こそが当然、奥様になれる。年頃からいっても、信仰の年月からいっても、体力からいっても、私こそという方から見ると、ほとんど名の知れていなかった花嫁候補の名簿にさえなかった韓鶴子夫人が急に浮上し、そして、奥様になったんです。嫉妬、妬み、なんかの間違いじゃないか、さらに、ありえない、続かない、という思いが湧いてきた人が多かったようであります。ですから、本当に多くの讒言、批判、いじめのようなこと、随分あったようです。もし韓鶴子夫人が、そのいろんな言葉に言い返し、相手を批判し、私は妻なのよと、こういう立場で、もし権威を持って言っていたら、もっと複雑になったでしょう。この平和の母の韓鶴子夫人の語られる言葉は、本当に涙です。私は、地獄の底の苦しみを通過しました。ありとあらゆる苦労をしましたと、そういうことが書いてあります。そして、本当に苦しんだ人でしか、しなければ、天国の喜びを味わえないんだと書いてあります。母とは、地獄の苦痛を味わい、思い通りにいかないことを満身に受け、それでも愛を捨てなかった人、子供を抱きしめた人、子供を抱っこできた人、それが母になれました。
 ですから、この韓鶴子夫人が、やがて平和の母と言われ、人類の真の母と言われるための一番切ない時期は、聖婚されて17歳、18歳、19歳およそ7年間、母になれるかなれないかというあらゆる試練と、あらゆる苦労を味わった時期でありました。そのような意味において、韓鶴子夫人は、女性として味わうべき心情的な切なさ、辛さ、孤独、疎外感、捨てられた思い、そういうものを全部味わった方です。そうでなければ、もし韓鶴子夫人以上に人類の中で、悲しい人になった人がいたなら、その人の母にはなれません。もしこの地球上に、父母から捨てられ、誰からも身寄りのない、孤独なある一人の人がいたら、その人よりももっと寂しい孤独感を味わってない限り、人類の母にはなれないのです。ですから、地獄のどん底を味わった人でなければ、平和の母にはなれません。愛されっぱなしで、何の苦労もなく、高い位置だけできたら、お高く止まってらっしゃいますねと言われるんです。何の苦労もしてないんですわねと言われるんです。
 でも、平和の母は違います。思い切って、寂しい疎外感というものの立場に追いやられながら、一切孤独を感じず、ただ、天の父母様を一条に信じ、夫であられる文鮮明先生を信じ続け、その愛を疑ったことがないのです。ですから、平和の母という立場になれたわけです。忍耐という苦い種があるんだと。今は花は咲かない、今は実を実らせないかもしれない。尽くしたことに何の結果も出ない、感謝さえされない、誤解ばかりをされる、そういう立場と目に韓鶴子夫人はあいました。だからといって、決して怒らない、そして、言葉に出さない、直向きに耐えました。そして、自分を誤解する人、讒言する人を尽くし、愛していったのです。それを続けた時、韓鶴子夫人を批判したり、あるいは良からぬ噂を流した人が、変わらなかった韓鶴子夫人を見て、逆に変わっていきました。そして、申し訳ないという思いを持ち、自分の至らなさを今度は逆に悔い、そして頭を垂れ、この方は本当に自分よりも若いけれども、お母さんなんだと、母の情をもっておられると、大人なんだと、愛において、そう思うようになり、心から真のお母さんとして、年をとった人たちが、そのように思うようになってきたのです。
 ですから、子供を産んで母になれるという要素は確かにあります。しかし、平和の母は、自分よりも遥かに年を取った方々で、色んな思いをぶつけてきた人たちを愛をもち、情で尽くしながら、お母さんという立場になられていったわけです。その非常に重要な核は、忍耐という名の苦い種蒔きなんだと。もちろんこれは嬉しく楽しいものではありません。だけど、種蒔きであることに間違いはないんだと。苦い味はするけれど、決して怒らない、反発しない、直向きに愛し続ける。その苦い種が必ず光り輝く栄光と輝きになってくる。それは韓鶴子夫人が平和の母として体験した、人間としての勝利を成した、重要な人生の秘訣だったということなのです。今日は、忍耐という名の幸せの実る種蒔き、忍耐という名前の苦い種蒔きをすると、光り輝く花が開かれていく、こういうテーマでお話をさせていただきました。どうもありがとうございます。

【 忍耐という苦い種が、光り輝く誇りとなる 】
 私もし、私がうれしいことばかりを経験していたなら、他の人の深い内面世界に気づくことはできなかったでしょう。また、天国の喜びも分からなかったでしょう。私は地獄のどん底まで経験し、ありとあらゆる苦労を味わいました。神様はひたすら、私を鍛錬してくださいました。私に必要なものは、疲れを知らない信仰と、堅固な意志、そして忍耐でした。それが今日の私をつくり上げたのです。誰であれ、天国への道のりで、甘く楽しいことばかりを手にすることはできません。
 信仰的な苦難こそ、神様の恩恵を感じられる最も貴い祝福です。その試練に打ち勝ってこそ、真なる人間として新たに生まれ変わることができます。忍耐という苦い種が一つ一つ実を結び、いつの日か、光り輝く誇りとなるのです。(人類の涙をぬぐう平和の母P.130)

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