自叙伝書写礼拝開催(陽暦2020年10月18日)

【自叙伝書写礼拝のみ言】

天一国八年天暦9月2日(陽暦2020年10月18日(日))

講演タイトル:「 万物は、神様が私たちに下さった貴いプレゼントです。 」
講演者:浅川 勇男 先生
インターネット中継にて「浅川勇男先生をお迎えして 自叙伝書写礼拝」(自叙伝書写会)を開催しました。
講話のPDFは会員ページよりご覧ください。
<浅川勇男 先生の講話>
 皆さんおはようございます。ただいま紹介に預かりました浅川勇男と申します。よろしくお願いいたします。さて、今日、私は「幸せ」結局、私どもの人生は何かと言われる答えは、とっても単純明快、4つの文字です。“し・あ・わ・せ”です。これになれたら、その人の人生って、とても良かったといえるんじゃないか。この幸せの前にただ一言、不がついたら失敗だった。極端に言えば、生まれてきてどうだったのか。振り返ってみると、20代、30代、40代、50代、70、80と、不のつく幸せでしかなかったとすれば、それは、ちょっとかわいそうではないか、と考えますと、わずかこの4つの文字、“し・あ・わ・せ”、これを感じるためにおそらく私どもは結婚したのでしょう。結婚するのは一人よりも“し・あ・わ・せ”、になるはずだったわけです。どうして子供生まれるんですかと。それは、夫婦でいるよりも子供がいた方が“し・あ・わ・せ”になれるからでしょう。そして、どうして子供を結婚させるんですかと。それは、子供の結婚を見ることが、自分たちが結婚するよりも幸せな感じになれるからです。そして、なんとしてでも、願いは、自分の子供に孫ができることなんだと。これまた幸せであります。と考えますと、人生に不幸なんて本当はありえないんだと。結婚して幸せ。子供が出来て幸せ。子供が結婚して幸せ。子供に子供ができてまた幸せ。その時60代、70代、80代になったとしても、それがとっても幸せなことです。
 ですから、年をとるって幸せだけしかないんだと。これがおそらく神様が願っている、あるいは私どもの心の奥底で願っている人生なのでしょう。ですから、非常に単純です。60代よりも70代の方が幸せだった。70代よりも80代の方がもっと幸せだった。と考えてみれば青春なんてどうでもいい。80代の自分は本当に幸せだと、そう思えたら、その人の人生はとても充実しているのではないかと、こんな風に思います。現実にはなかなかそうはなれないというのがあると思いますが、実際のところ、どうして幸せの前に不がついちゃうのか、というこの原因的なものを気がつかないで50年になる。おそらく、いろんな知識はあったと思います。いろんな頭には様々な知識があると思います。だけど、一番肝心で、それさえ知っていればいいもの、どうしたら幸せになれて、何をしたから上に不が付いちゃったのか。この知識の中で最も尊い知識はこれだと思います。私どもの、あるいは人類の幸せのことしか考えることがなかった人、これが、私が思うに文先生と韓鶴子夫人だと思います。頭の脳細胞の中に、どうやったら人を幸せにできるのかという風にしか脳細胞が動かない人。そして、十本の指、2本の手足が自分のためには動かない人。そのような宿命を持って生まれた方が、私は文先生、韓鶴子夫人だと思っています。ですから、この方は、人類の父母なんだと、このように称されるのではないかと思います。
 さて、それでは、この方の教え、ないしは悟った世界をベースにしながら、今日はどうしたら幸せになれるのかという、ある一旦の、でも結構本質的で、そして、なーんだと思うかもしれませんが、結構実践するのはそう簡単ではない、というような話をしてみたいと思います。幸福も不幸も私の心の在り方次第。これが結論です。まあ、今日皆さんが、これからお話があって、何か頭に残しておいて頂けるとすれば、このことになると思います。正確に覚えていただくと、幸福も不幸も私の心ってところが重要なのです。他人の心、あまり関係ありません。多くの場合、私を不幸にしたのは誰と言った時、奥様の回答はかなりはっきりしています。夫だと言います。それから、ご主人に聞くと妻だと言います。子供の場合、親だといい、嫁に聞くと姑だと言います。姑に聞くまでもありません。必ず嫁と言います。ですから、自分以外の人が、私を不幸せにしているんだと考えやすいのです。ではそのままあと50年生きて、あなたが本当に良いと思ったような姑さんに変わるんですかと。それから、あなたがこんな嫁になったらいいと思うほどの嫁に、70年変わらなかったら、70年間不幸のままじゃないですか。
 ですから、人が変われ、変われ、と思って50年。結局、変わらなかったら、ちょっと哀れです。なぜなら、私を不幸にする人のお陰で不幸であり続けて40年。これってとっても損な話です。こう考えますと、人の心を変えるのは、結局人の所有物です。預金通帳に5000万がある。一度言ってみたかったんです。人の通帳に5000万あるからどうってことないでしょ。自分の預金通帳には500円しかない。これ現実ですよ。他人の預金通帳に5000万あった所で使えないじゃないですか。だから、羨ましい、欲しいと言ったところで、自分のものでないものは動かせないし、おろせないわけでしょ。おろせるのは500円ですよ。となれば、他人の心が良くなればというのは、相手の預金通帳に干渉するようなもので、しょせんあなたの所有物ではありません。ですから、他人の物は変わろうと一生懸命思ったところで、それってその人の所有物なんだから、変わらないのです。となれば、自分で自分が動かせるものは何ですかと。自分の預金通帳に入っている500円ですよ。これはおろせるわけです。と同じように、私の心は自分で変えられるわけです。これまさに所有物です。ですから、この単純な悟り。幸福も不幸も私の心のあり方次第なんだと。そして、それは、変えられるということです。なぜか。自分の持っているものですから。自分が自分の意思で変えられるものを変えて、幸せに思えるようになることは可能なのです。
 ご主人は一生変わらなかったとしても、このご主人で幸せだと思える自分になれば、それ幸せな人です。そして、奥様が変わらなかったとしても、あいつって結構面白いんだよなと思える、かなり豊かな心にご主人がなれば、それは、変わる可能性があります。こう考えますと、全て、何にも感謝と思えなかったことが、ありがたいと思えるようになる。そしたら、それは、人生がとっても豊かになるでしょ。それから、今まで見ていた風景が、何にも感じなかったのに、コオロギが鳴いているだけでありがたい。夜の空に月が輝いているだけで手を合わせたくなる。そういう心になった時、同じ月を見ている人よりもはるかに充実するようになるでしょ。これは、心が変わった証です。というわけで、ひとつの大きな点、幸福も不幸も私の心のあり方次第なんだと。さて、どんな心の在り方が、あなた自身を幸せにするのか。そして、あなたが幸せになると、次が重要なんですけれど、必ずあなたと付き合う人も幸せになれます。これは、電流の法則と言ってもいいのでしょう。朱に交われば赤くなると言うじゃないですか。私の心が怒りと憎しみと嫉妬と妬みで満ちていれば、そのかなり黒ずんだ、色としては本当に美しくない、まだら模様の私に触れたら、その触れた人も汚れていきます。だけれども、私の心が本当に綺麗になり、汚れがなくなり、幸せになったら、私と触れた人もまたそう変わっていくのです。
 ですから、朱に交われば赤くなる。私の心は真っ白で、豊かで、本当に輝いていくと、私と付き合った人も輝いていくんだと。人は言葉では変わりません。心で終わります。あの人は、口数は少ないけれど、とってもいい人だなと。その人と付き合うことによって、知らず知らずに感化されていくのです。こういう意味においては、人間関係が私どもの人生に相当左右します。悪口ばかりを言う人と付き合うと、自分も悪口を言うようになります。しかし、その中でたった一人、あの人は口ではああいうことを言っているけど、本当は根のいい人なんだよと。あの人ってこんなにいいとこがあるんだよ、という人がいたら、今度は自分もそういう風に、人の良い点を見つめ、本当に尊敬できる人に変わっていくことは可能です。こう考えますと、私の心の在り方次第。さあそれでは、どんな心が幸せに私を導くのか。そして、私と付き合った人を幸せの方向に導いてあげるのか。私が幸せになるということは、これは、多くの人を幸せになることができるのです。ですから、よくために生きると言われます。そして、人のために尽くすと言われます。この中でとても大きな尽くし方は、自分が幸せになることなんだと。その幸せになった私と付き合った人が幸せになれるからです。私が不幸になると、私と付き合った人にまで不幸を感染させることになります。
 私はこれを不幸ウィルスと呼んでいます。これはコロナよりも怖いかもしれません。仮にあと何ヶ月、何年後にコロナはすっかり過去の思い出になったとしても、依然として不幸な人はたくさんいるでしょう。夫婦が円満になれない、親子の葛藤が続く。コロナが終息したら夫婦円満になれるんですかと。コロナが終息したら親子の葛藤は消えるんですかと。コロナは全く過去のものになったら、嫁と姑さんはすっきりいるんですかと。そんなことないと思います。もっと深い病原菌、不幸ウィルス、それに既にかかっているはずです。さあそうなりますと、幸福になるための心の在り方ということについて次に申し上げたいと思います。これは頭に置くなり、あるいは控えるなりしていただければ、来た甲斐があったかもしれません。2つの心。これはかなりの確率であなたを幸せにするでしょう。第1の心。ありがたいと思う心です。感謝の心です。感謝の心を持っている人は不幸ではありません。自分を幸せにし、人を幸せにします。健康ウィルスです。ありがたいと思うこと、感謝だと思うこと、そして、それをできれば口に出すということ。感謝ですという言葉は、感謝ですという言葉を聞いた人を幸せにします。ありがたいと思って、ありがとうと言ったら、そのありがとうという言葉を聞いた人に幸せの種まきをします。ですから、一つはありがたいという心だと。
 そして、もうひとつの心は、“い・た・だ・き・ま・す”という心です。いただきます、の心。これは、皆様が食事をする前に1日3回は実践していることかもしれません。朝食べる時にいただきます。昼食べる時にいただきます。夕方食事をする時にいただきます。そう言える人は、幸せの道を作っています。何にも言わずに当たり前のように食べる人。きっと不幸の種まきをしているのでしょう。それを作った奥さんがいる。そこに時間を割き、料理した奥さんがいる。仮にスーパーから買ってきたものであっても、それを運んできた人がいるし、調理したスーパーの料理人がいるし、そもそも魚なら釣った漁師がいるし、運んできた運送した人がいます。多くの汗と精誠と涙の結果が、スーパーに置いてある一つの食品なのです。ですから、家で料理していなかったとしても、それは、苦労の賜物です。ですから、作られた食品にもありがとうと言える人って、とっても心豊かな人です。そして、いただきますという言葉は、これは本当に素晴らしい日本語です。いただきます。いただきますとは感謝の心です。いただくんだと。すべての万物は、神様という方が私たちにくださったプレゼントです。という言葉です。ということは、もらう方から言えば、頂いたってことになるじゃないですか。買ったっていうことじゃないですよね。このプレゼントという言葉は、代金を要求してないということです。販売ではないから。プレゼントというのは、極端に言えばお礼は要りません。あなたが幸せになればそれでいいんです。それがプレゼントです。これは1000円したから、1000円ちょうだいというのは販売です。プレゼントというのは、見返りは一切必要ありません。全く一方的に、神様という方が私たちに下さったもの。これが万物だという意味だと思います。というわけで、いただきます、の心でありますが、さあそういうようなありがとう、そして、いただきますと。これを人の前にやるということは尊いわけですが、今日のテーマは万物になります。
 人間、私共の人生は二つのものと関わっております。人と万物です。誰もいないように見えても空気を吸っています。これは万物を頂いているということです。空気から命をいただいております。ですから、一番深い心の豊かさは、空気に感謝です。この心の世界、その深みの世界から行くと、本当に修行して、心を磨いた人は、空気を吸うだけで涙がこみ上げてくる境地になるそうです。あとは何もいらないと。もう空気だけを吸えるだけでありがたくてしょうがない。それから、太陽が輝いている。それだけでありがたい。そして、水が飲める、水道の蛇口から水が出てくる。そしてコップに入れて水が飲める。これもありがたいことです。こう考えますと、この万物、それから、人間関係なのですが、万物には2つあります。人間が全く手をつけていない万物。これは、太陽やお月さんです。空気もそうでしょ。それに、対して食材というのは、これを育てた人、収穫をした人、そして、それを運んだ人、多くの人の愛が込められて、そして、私どもの食前に出されたもの。これは、人間の愛が万物の愛に込められて出たものが食前に出されたものです。
 そこで、私は今日、特に重要なのは、食事の仕方なんだと。幸福な人というのは、食事の仕方が違うんです。不幸な人は、食事の仕方が良くないんですよ。毎日、私どもがいつも向かい合っているのは、食材じゃないですか。ですから、当たり前になった時終わるんです。人生が。本当は感謝で、素晴らしいもので、感動的なものが、感じなくなっていく、当たり前になっていく。朝ごはんが食べられて当たり前、昼食べられて当たり前、夜食べられて当たり前になった時、その人は食事ができる以外のものに幸福を求めようとします。そして、満たされません。食事はしているのに、他の所に幸せを求めようといたします。でも、一番ありがたいのは、食べられるということです。食材とは何か。これは愛です。ですから、今日の話の中で、まあある意味で、私が知っていただきたいことは、食材って愛なんですよと。それは、すべて神様があなたのためにプレゼントしてくださった愛なんですよと。食事とは、愛をいただくことなんだと。こんな情感がもし湧いてきたら最高だと思います。ですから、食べて感謝。
 それから、捨てるという行為。ゴミですよね。捨てるってとても神聖な行為なのです。捨てる意味がわかった人が、幸せになれると思います。捨てるとは何か。バナナの皮を捨てるじゃないですか。中身を食べますよね。それから、魚を食べると、大概頭は食べられない場合が多くて、骨と頭以外は全部食べて、骨と魚の頭を捨てるわけでしょ。それってどういうことなんですかと。それから、食べ残しっていうのも、ももちろんあります。これを感謝できますかと。ですから、私は今日のやがて終わるであろう今日の講話の中で、ゴミさんありがとうという話をしたいと思います。ゴミに手を合わせる人は幸せな人です。捨てられていくものに対して、何の感情も持たない人、不幸な人です。結局、あなたは捨てられた万物の心がわかっておりません。きっとあなたの心の中には、誰かを差別し、誰かを冷たくし、捨てている世界があるのではないか。本当に切ない思いを持っていて、寂しい思いを持っている人の心がわからないのではないか。だから、捨てることが当たり前になっている。ひょっとすると、心の中で、もう誰かを捨てているのではないか。この子はどんなに愛を投じてもわからない子だ。瞬間捨てました。この夫は何をやってもダメな人だと思った瞬間、心で夫を捨てたのではないか。あんな妻とどうして結婚したのか、思った瞬間妻を捨てたのではないかと、あとは情がいきません。そういうことかもしれません。ですから、万物との関わりは、人間関係にストレートに入ってくるのです。
 そこで最後の前ぐらいの話をしたいと思います。私はこの神様が、私共に与えてくださった無償の愛の万物。それにやや人間は手を加えておりますけれども、これを私は三種の神畜と呼んでいるんです。勝手な言葉です。控える必要はありません。三種の神器ってね、今日は、あの皆さんが今日これから書くのは、神様が私たちのためにくださったそのすべての万物はプレゼントだと書くわけでしょ。神様がってことは、神様からいただいたって意味でしょ。ですから、神の器ですよ。従って神器ですよね。天照大神がニニギノミコトに与えたものは、剣、鏡、勾玉です。これを称して三種の神器というわけです。これはもはや天寳って言ってもいいでしょ。ところが、この共通点は、食べられないということです。鏡は食べられません。それから、勾玉も食べられません。飲んだら病気になります。そして、剣は食べられないですよね。ですから、三種の神器と言った場合は食べられないのですよ。
 ところが、私どもの毎日の生活は、食べなければ生きていけないわけじゃないですか。ということは、そのためにある食材は、もはや神器です。それで、私は動物の中には、本当に涙ぐましい使命を持って、天の父母である神様から命を与えられ、命を捨てることを使命として受けて、与えられた動物がいるということなのです。これは神様の使い手です。それを三種の神畜と勝手に言っているんですが、一つは牛ですね。“ちゃん“をつければ牛ちゃんということになります。あるいは、牛様と言ってもいいでしょう。あらゆる人間の中で、牛以上に立派に生きた人間がいるでしょうか。もし牛が感動するような生き方をしたら、その人は聖人の中の聖人です。次が鶏です。そして、三番目は豚ですよ。従って、牛、豚、鶏、これを私は勝手に三種の神畜と呼んでいるんです。そして、人はこの三種の中で生き、なかなかここまでは生きられません。彼らは人のために命を捧げることを使命として生まれてきております。そして、それを実践した時、牛肉となり、牛乳となり、そして、豚肉となり、そして、卵となり、チキンとなるのです。
 私どもは、鶏の子供である卵を食べ、さらにはフライドチキンに行ってチキンを食べ、それから、豚肉を食べ、牛肉を食べ、大半の子供たちは、母乳以上に牛乳を飲んでいくでしょ。ですから、子供って牛に育てられてきたわけですよ。牛乳というのはすごいと思います。もしこの世界から牛乳が消えたら、ほとんどの食品はなくなるかもしれません。ケーキ、チーズ、一切消えます。こう考えると、やっぱりすごいなと思います。彼らはそれに不平不満も言わず、抵抗もせず、泰然自若として、使命と宿命を受け入れております。牛は常に“もー”です。あれほどおとなしい動物はいません。死を前にしているのに慌てません。うろたえません。身体全体が牛肉となり、皮はベルトになり、出る乳は自分の子供ではなく、人間の子供の牛乳になってくのです。だけど、それに不平不満など持ちません。与えることが全てだと。もう悟りきっているからです。豚を見てください。時々あの姿を見ると私は涙が出ます。あの丸っこい姿。あのまんまるだという不思議な生き物です。ですから、動物園にはいません豚は。何故か。全身食べてくださいと。ですから、見て楽しむ姿はありません。たぶん馬の絵や牛の絵はあると思いますが、豚の絵はないと思います。何故か。もう食べられるため。これだけにあの姿をしております。ですから、まんまるなわけであります。
 鶏は、自分が産んだたくさんの子どもを人間に捧げています。産んだ卵。これは、極端にいえば鶏の子供ですから、それを私どもは取って、焼いて、そして、あげて食べているとわけではないですか。それをよしとしているのは鶏で、最後は母体である自分さえチキンで捧げております。そんな生き方、あなたできますかと。夫に対して、奥さんに対して、子供に対して、嫁に対して、牛のように、豚のように、あるいは鶏のように、完全に愛に徹しきれますかと。これは簡単にはできません。ですから、私どもは、むしろ万物に学ぶべきなのです。こういう生き方をするんだねと。というわけで、これだけ涙ぐましく、命を捧げたこの命にいただかせていただきます。いただきます。そして、ありがとう。こう言える人、その人は、きっとご主人や奥様や姑や嫁に感謝できる人です。ですから、私どもは、食生活はすでに私どもの心の生活であります。というのが第一で、いただきます、の心なんですね。
 それから、最後のいよいよ最後の話が、捨てて感謝という話をします。これがいわゆるゴミ捨てというものです。最近、世界日報という命の言葉というこのシリーズにしている、この短い文章で、これを抽出させて頂いておりますが、「ゴミさんありがとう」という文章を書かせて頂きました。これが相当な反響を呼んでいると聞きました。ゴミにありがとうと言う人はいないからです。ゴミとは何か、という話をやや話しておりました。そこで、バナナの皮を例えて言っているんです。バナナの皮と中身とどちらが尊いものですかと。大概は、中身というではないでしょうか。何故か。皮をみんな剥いで中身を食べるからですよ。中身を取らずに皮を食べている人いないでしょ。通常バナナは、皮を剥いで中身を食べるわけじゃないですか。これ当たり前ですよね。すると皮はどうしているでしょう。捨てているじゃないですか。すると余計なもの。2、3日置くと、匂いがして有害である。だから、捨てて燃えるゴミにするんですよ。食材は燃えるゴミになります。燃えるゴミ、燃えないゴミ、有害ゴミ、そして、粗大ゴミ、大体こういうふうに種類をつけますが、本当にたくさん出るのは、燃えるゴミです。その大半は食材でしょ。
 では、捨てられていくゴミと称せられたバナナの皮は、何の役にも立たなかったのか。とんでもない話です。バナナの皮は、私というものを超えています。皮がなければ、中身はないわけじゃないですか。皮がないバナナなんてないでしょ。では一体、中身と皮とどちらが苦労したんですかと。皮ですよ。そのバナナの取れたところが、アジアであれ、アフリカであれ、やっぱり暑いところだと思います。その炎天下の暑さを耐えたのは皮ですよ。ですから、皮の黄色さは、暑さを耐えた立派な証なんです。時には、暴風が吹き、雨が降る、全部それに耐えたのは皮ですよ。どうしてそんな苦労をしたのか。中身を守るためでした。そして、その中身を守った先に何があるのか。人間に食べて欲しいからです。美味しく食べて欲しいからです。これはバナナの愛であります。そう考えると、皮ってすごいんです。八百屋さんからバナナを買っていく。これ私は因縁だと思っています。つまりその人の所に行くバナナってあると思うんですね。ですから、買い物ってバナナとの縁だと思います。行ったんだけど、そのバナナは買わずに通り過ぎていく。あとの3人目に来た人がそのバナナを買うということは、その人とバナナに縁があると思います。でその家に行く縁があるわけですよ。バナナが来てくださったということです。そして、皮を剥いて食べるわけですよね。その後、バナナを捨てるわけじゃないですか。なぜバナナに匂いがするのか。
 私は最近、この匂いとは何かということについて考えました。それは、自分は使命を終えたから、早く捨てなさい、というメッセージではないか。もし、バナナの皮から香りの良い匂いが来たら、人はバナナをずっと飾っておくでしょ。皮を。なぜなら香りが良いからです。でも嫌な臭いがするのは、どうしてでしょうか。自分を否定しているからです。もう自分は使命を果たしたから、早く私を捨てなさいと、こういうメッセージです。未練を持っておりません。もう中身をあなたは食べたから、私を早く捨てなさいという潔さです。これが匂いというものなんだと。それで、私どもはバナナの顔ゴミ袋に入れて、そして、定例されたところの捨て場に持ってくのですが、実はそこに入っているものは、私のために命を捧げた、命を食べられるために守り着いた、魚の頭と骨は肉を食べさせるためについていたんだと。全てはそうです。だから、そんな目で見ると、ゴミ袋に入っているものは涙しかありません。もう私のために来たものたちです。ですから、ゴミ箱に向かって感謝、ありがとう。ですから、ゴミさんありがとうというわけです。
 燃えるゴミがすごいのは、やがて焼却炉に入って燃やされるって事なんですよ。燃えるゴミというのは燃えるわけでしょ。ということは、燃えて見えないものになって、天に還ってくわけじゃないですか。ですから、天から来て、バナナの姿に形を変えて、私どもの命を与えて、使命を終えたら、再び燃えて天に還っていく。ですから、私は、焼却というのは、昇天儀式と名付けているんです。天に昇らせる儀式なんだと。こうして天に還っていく。ありがとう、ありがとう、いただきますと。こんなふうな、食べて感謝、捨てて感謝の生活をしていると。そういう心になった時、夫婦が向き合い、親子が向き合い、嫁姑が向き合うと、なんかそこに幸せ感が灯されてくんだと。こういうわけで、今日は、感謝で頂き、そして、感謝で物を捨てていく。こういう日常生活を通しながら、私どもが心豊かにしていく。このような食生活を通しながら、これが夫婦や親子の円満な生活になります。まあこういう世界を示唆しながら、世界に多く万物を大切にしましょうと。このように言われているのが、平和の母であるということを申し上げて、私の講話にしたいと思います。ではどうもありがとうございました。

【 万物は、神様が私たちに下さった貴いプレゼントです。 】
 万物は、神様が私たちに下さった貴いプレゼントです。人間は誰もが、その贈り物を等しく受け取ることができなければなりません。一個人が万物を独占しようとし、―国家が科学技術を開発するとしても、豊かになった後は、自分よりも恵まれない人に技術を教え、相手も豊かに暮らせるようにしなければなりません。それが真の経済の平準化です。私たちが誇るべきは、高価な財布に入っている真っさらな紙幣ではありません。その紙幣を誰のために、どのように使うかを悩み、正しく使うところにおいてのみ、本当の誇りが生まれるのです。(人類の涙をぬぐう平和の母p.208)

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