幸福を招く自叙伝「平和の母」書写奉納式開催(陽暦2021年10月26日)

【自叙伝書写礼拝のみ言】

天一国九年天暦9月21日(陽暦2021年10月26日(火))

講演タイトル:「 ためらいなく与えて忘れる 」
講演者:浅川 勇男 先生
インターネット中継にて「浅川勇男先生をお迎えして 幸福を招く自叙伝「平和の母」書写奉納式」(自叙伝書写会)を開催しました。
講話のPDFは会員ページよりご覧ください。
<浅川勇男 先生の講話>
 私はこの八王子にたどり着く前に結構いろんなところを回っておりまして、記憶によれば、長野、新潟、富山に行って参りました。それから、一時東京に戻って参りまして、昨日は鹿児島の方にいて、昨日、九州の果てですよね。そこで多少体は疲れておりましたが、今日、八王子にこちらの教会に来させて頂き、すっかり疲れが取れました。それはこの素晴らしい宮殿と言ってもいいようなこの会場を一部屋一部屋、1階、2階と見させて頂き、何かを見るたびに疲れがとれていくという、何か心の疲れをとかしてくれる豊かさと清らかさが何か込められているような形で、最後の極めつけは姉妹のピアノ演奏ですね。あれですっかり元通りに戻り、さらに、パワーアップしてこの場に立たせて頂いております。
 しかもここの場所はですね。とても立地条件が良いと感動しているのは、多少高齢者になるといつ何が起こるかわかりません。ということはですね、そういう観点に見ますと、ここの教会施設はとっても高齢者向きだと思いました。それは向かい側が病院だからなんですよね。何かがあった場合すぐ運び込まれるという安心して何かができるという。よくぞこういう場所が見つかったなと、こんな風に思いまして、とても幸せを感じている次第でございます。よろしくお願いいたします。
 さて今日は、その幸せになるための生き方で最も大切なことが、与えるということなんだと。お母さんは子供に与えます。また、ご主人も奥様に給料を与えるではないですか。与える人と与えられる人では天地の差が出てしまうんだと、常に与え続けた人は必ず返ってきます。従って、幸せをいただくことができるんだと。しかし、もらうこと、得ることだけを考えていると今度は幸せを頂けないと、与えているものがないので。その場合、与えたら必ず幸せになる与え方があるんだと。それは与えたことを忘れるということなんだと。簡単ではありません。与えたことをしっかり覚えている方がいらっしゃいます。ノートにとっている人もいるし、もう13年前の何月何をしたねという人もいるわけで、驚くべき記憶力を持っております。そういう方は間違いなく不幸の種を蒔いたことになります。
 記憶力の良さは時として不幸の種まきになります。ですから、ためらいなくということもまた重要で、与える時に躊躇する時があります。この人に与えていいかなどうかとか、損をするのではないかとか、こんな人に与えてどうなるんだとか、ためらいますね。そのためらった時間の分だけ運勢を失います。ためらわずに与えると、瞬間的に与えるのはものすごい素晴らしい人格です。ためらわずに与えて、しかも与えたことを忘れるというのは、もはや聖人であります。そこで私は今日、このためらわずに与えてその与えた方々からとっても大きな恩恵を受けたある一人の女性の生涯についてお話してみたいと思います。
人類という規模においては、今日、皆さんが書写される平和の母、韓鶴子夫人になりますが、この女性は、日本人でありますけれど、ためらわずに与えた代償は、お隣の韓国、そして、お父さんとお母さんがいない子供たち、孤児であります。その数3000名です。孤児にご自分の短すぎる生涯56年の大半の生涯を与え切った方です。この方がその生涯を尽くしたのは日本ではありません。韓国の木浦(モッポ)というところなので、木の浦と書いて、これを韓国語でモッポと言います。港町ですね。この町で3000名の父母を失った方々に尽くし、少し驚いたことに市民の韓国の木浦という市の人間のモデルとして称賛されました。
 いわゆる市民賞をもらったのです。そればかりではありません。人生はどのように考えるのかと言うと、お亡くなりになった時に、どれだけの人があなたに感謝して、どれくらいの数が集まるかがその人の人生の決算だと思います。貸借対照表、お金にも清算があるように、人生にもやはり決算があります。生涯与え続けた人は、必ずお葬式の時に呼ばなくても来ます。ありがとうと、いつでも感謝して涙をします。涙を捧げます。この方がお亡くなりになった時、木浦の市民葬を市長が主催しました。そして、集まった方々の数は3万人を越えました。八王子市で、八王子の市民でない人、それも日本人でなく、韓国の方を最高のモデルとしたのと同じなのです。
 しかもその方の八王子の市民葬に3万人が集まったと言う。いったいこの人は人生をどのように考え、何を成したのかということについて、皆様が今日のこの実話でありますので、この方がどのような考え方で何をされたのか、それを皆さんが学ぶことを通して、皆さんの抱えている夫婦の課題、親子の課題、近所の方々との課題、課題のない人はいないと思います。悩みのない人生はないと思います。年をとれば悩みはもっと課題が増えていき、決して楽にはならないと思いますが、何か皆様の生き方の一助になればと思います。この方の人生の中心には夫婦愛があるんです。それと、立派にこの方は、長男にその事業を引き継ぎました。簡単ではないです。母親が長男に物を引き継ぐということは。反発もあり、抵抗もあり、結局、違う道に行く方もいらっしゃいますが、この方は、りっぱにご自分の事業をご長男に継ぎ、長男は今東京でも大阪でも活躍し、韓国でも活躍しています。親の事業をしっかり継ぎ、発展させているのです。そんな意味で、この方の生涯の何事かが皆様の何かのプラスになれば幸いであります。
 お生まれになったのは1912年、大正元年です。生まれたのは高知県です。当時1912年は、日本は韓国をすでに支配しておりました。統治しており、この地球上に韓国という国は存在しておりませんでした。日本であります。その役人としてお父さんは木浦に就職しておりました。7歳の時、千鶴子さんはお母さんから手を引かれて木浦に行きました。そして、日本には帰りませんでした。生涯は全て木浦の地に尽くしたのです。お母さんは娘をどう育てたのか、これが重要だったのです。母親の娘に対する、あるいは息子に対する影響力はとっても大きいです。父親も重要ですが、出産したということは、母親の体が子供です。ここが違います。体の一部、それが子供です。
 その体の一部に何を母は教えたのか。母が教えたのは、神様を愛するということだったのです。高知でお母さんはキリスト教徒になり、そして、神様を深く信じ、イエス・キリストを愛しました。イエスという方は、やったことはシンプルです。誰も裁かないということでした。そして、人を全部受け入れることであり、もしその人が本当に罪深い人なら自分が代わって罰を受けるというほどまで愛した人です。そういう風に生きるんだよと教えたんです。そして、一週間の7日間の中で一番大切なのは日曜日であり、これを聖日というんだと。そこには礼拝があって、神様を敬う日だから、必ずあなたは出なさいと。これを幼い頃から教え続けたのです。
 そういう教えの中で7歳、手を連れられて木浦に行きました。この方は今日、演奏していただいたようにオルガンがとても得意でありまして、音楽を非常に勉強した人なのです。二十歳の時に、父親は急に亡くなりました。生活の糧を失ったのです。お母さんは助産婦をやり、彼女は音楽のオルガンの演奏ができたので、音楽学校に行って教えておりました。日曜日には礼拝に行っていました。彼女の前世を決めたのは、日曜日に神様を敬う礼拝だったのです。ある日のこと、千鶴子さんに音楽を教えた先生が参りました。人間の出会いとは実に不思議なもので、誰と出会い、何を聞いたか、それが人生を決めるようです。先生は言いました。千鶴子さん、生きがいのある仕事をしてみないかと言ったのです。生きがいのある仕事をしてみないかいと。先生、生きがいってなんですかと聞き返したら、こう答えました。
 生きがいというのはね、あなたがこの世に生まれて、誰かが幸せになることをすること、それが生き甲斐なんだと。あなたがこの世に生まれて、誰かがあなたに感謝すること、そういうことをすることを生きがいと言うんだよと。何をしたらいいんですかと聞きました。実はねと言うのです。私の知っている立派な韓国の青年がいると。尹致浩(ユン・チホ)と言うんだと。彼はキリストを深く愛する人で、そして、とても情が深く、どんな人でも愛するということを実践していた人なんだと。ある日のこと、彼が橋を渡った時、橋の下から泣き声がすると。彼は走りよって橋の上から下を見ると、父母を失った孤児7人が草むらに隠れて抱き合っていたというのです。黙っておけば死んで行きます。餓死するでしょう。父母はいたのですが、あまりにも貧しかったので、子供を捨てたに違いありません。それが7人いました。
 行く場を失い、ただ泣くしかなかったのです。この泣き声を橋を渡った人は誰もが聞いたのですが、かかわりませんでした。面倒くさい、その後が厄介だと。しかし、彼はそうすることができない人だったのです。困っている人がいれば、抱きかかえて何とかしてあげたい情が沸き起こる人でした。ですから、彼は橋から降りて、7人を抱きしめ、家に連れて行ったんだよと。これが、彼が始めた孤児院の始まりだったんだと。孤児院を共生園と名付けました。共に生きる園です。その孤児院は瞬く間に増えて30人を越えちゃったんだと。彼は一生懸命働いて、食べ物を彼らに与えたけれど、不思議なことに孤児たちは笑わないんだよ。
 母の愛を失った子たちは、愛を失ったので、笑いを忘れちゃったんだよと。だから、君が、あなたがそこに行って、音楽、オルガンを弾いて笑顔を取り戻してやって欲しいんだと言いました。分かりましたと彼女は言い、そこに行ってみましたが、びっくりしたのは人間の住むとこではないということなんです。ほったて小屋でした。ただ30人の子供たちが、そこにとにかくたむろしているだけで食べ物を与えているだけでした。人の住むところではないと。真っ暗な闇でした。電気もガスももちろん水道もありません。そういう中で千鶴子さんは光を見たんです。その光は、尹致浩さんの目だったんですよ。自分だけのために生きている人と為に生きている人とは目の輝きが違います。目を見れば、どういう人か分かる場合もあるようです。全く希望がないように見えたこの暗闇の世界の中で、千鶴子さんは輝く光を見ました。
 それは尹致浩さんの本当にみすぼらしい服だったそうです。履いているものは靴ではなく草履だったそうです。だけど、目は輝いていた。何にも乱れがない。ただ人を幸せにしたい。それだけでした。彼女は多くの男性を見てきましたが、これほど輝いた目を見たことはなかったのです。そして、子供たちに音楽を弾き、始めて母らしき人に出会った子供たちはとても喜び、次第に笑顔を取り戻していったんです。27歳、ある日、尹致浩さんがやや緊張した思いでオルガンを弾いている彼女のところに来ました。こう言いました。結婚してほしいと。結婚を申し込まれたのです。彼女はびっくりしましたが、しばらく考えさせて下さいと言いました。
 韓国の青年が、日本の女性に求婚するということは、当時の風潮から言ってありえないことだったのです。木浦の市民は5万人。1万人の日本人がある意味においては支配していました。という関係性の中で、全員が反対したそうです。この噂は木浦を駆け巡り、まず韓国の人たちが反対しました。自分たちをこれからやがて30年に渡るほど、韓国は国を失い本当に辛い日々を送ったわけですが、その為政者に求婚する、ありえないことだと。さらに、日本人も反対しました。誰もが反対をしたかに見えましたが、ただ一人賛成したんですよ。それがお母さんだったんです。母親は立派でした。千鶴子さんが母に相談した時、お母さんはこう言いました。結婚に国境はないんだと。これは生涯入ってくるんです。愛だけなんだよと。結婚に大切なのは愛なんだと。国境も民族もお前には関係ない。
 神様がお造りになった天国には国家なんてないんだと。ただ愛し合う者同士だけがいる。だから、あなたの心に胸を当てて心から尹さんを愛しているなら胸に飛び込んで行きなさい。こう言いました。彼女はそれに勇気を得て結婚をしたわけです。この結婚を思うと、世の中にはこの男性と結婚したら給料が沢山入るのではないか、その先に生活が豊かになるのではないかと考えながらする女性もいないことはありません。あるいは、この男性はすごく地位があるから自分がそのお嫁さんになれば自分も一緒に地位が上がれると、地位と結婚する方もいらっしゃいます。あるいは今まで苦労が多すぎたので、この豊かな男性と結婚すれば生活が楽になるのではないか、生活と結婚する人もいます。
 この結婚の場合、一切はありませんでした。お金はない、地位はない、何にもありません。その先にあるものは、貧乏と苦労だけです。しかも30人を越える孤児たちの面倒を見ると言う、苦労続きのことを前提として彼女は結婚に踏み切りました。何故か。心から愛していたからです。それは夫を愛していただけではありません。夫のやっていることを愛したんです。だから、苦労を共にして、夫と共に苦労しよう。夫のしていることを自分がサポートし、そして、夫の理想を成就してあげよう。これが結婚の動機だったのです。2人は相変わらず苦労しました。毎日、リアカーを引くんです。物乞いをするんですよ。夫婦で。誰も食事を与えてくれる人がいないのです。だから、2人で地べたに頭をつけ、物乞いをするんです。毎日やるんです。時には自分たちの食事を全部孤児たちに与えました。益々やせ細っていきます。だけど、喜びがあったのです。
 こうして2人は夫唱婦随で苦労しながら次第に基盤が築かれて、孤児の数は100人を越えました。さらに、200人を越えるんです。試練は始まりました。今日、私はこの夫婦を襲った三つの試練の話があるでしょう。皆さんが夫婦関係を持ちながら歩むと、多くの試練とも言うべきものがある。経済の戦い、あるいはご主人が急に失職する、病気になる、色んな課題があります。この夫婦の場合、国と国との関係で生じました。簡単ではないんです。1945年8月15日、日本は太平洋戦争で敗戦し、朝鮮半島から引き上げていきます。36年以上越えたこの日本の統治に対して、統治された方々はやっぱり鬱積したものを持っていました。これが爆発するのです。村人たちが手に鎌を持ち、あるいはまた、その鍬を持って押しかけてきたんですよ。何のために。殺害するためです。
 尹致浩は生かしておけないと。理由は簡単だと。妻が日本人だからだと。妻は勿論生かしておけない。これだけ国を奪い、これだけ自分を苦しめた夫婦、絶対に許すことができない。強烈な感情の中で殺害しに押し寄せてきたのです。取り囲まれました。もしこの2人がその時殺害されていれば今日の話はありません。しかし、愛したものは必ず愛し返します。人を守ったら、命をかけて守ったなら、守られた人は命をかけて守り返します。あわや殺害される瞬間まで行った時、父ちゃん母ちゃんを殺すなと言って、棒を持ち、あるいは棒切れを持ち、石を持ち、二人を取り囲んだのです。そして、口々に叫びました。この人は日本人だけれど、母ちゃんなんだと。お母さんなんだと、お母さんを殺すものは僕たちは許さないと言って激しく叫びました。
 千鶴子さんは泣きました。愛は必ず結果をもたらす。愛された者は成長する。右も左も分からず途方にくれていた者たちが、愛されたら愛し返そうとりっぱに成長している。村人たちは正気に戻ったんです。一時の感情に左右されていましたが、自分たちは一体何をしようとしていたのか。彼らは、俺たちが本当はやらなければいけないことを、我々の国の孤児たちに手を差し伸べてくれた立派な日本人なんだと。木浦には赤い旗が林立しました。人民裁判が始まります。北朝鮮の軍人はこう言いました。これから人民裁判と処刑を行うと。対象は尹致浩であると。そして、その妻だと。理由は簡単である。まず日本人であるということ。それを妻に持ったということ。そして、日本ないしアメリカに協力したということ。だから、これから銃殺すると。問答無用です。これに賛同する者は手を上げてくれと村人に言ったようです。村人が一人でも手を上げていれば二人は即刻処刑されました。
 しかし、誰も手を挙げませんでした。一人の村人が叫びました。あなたの言うことは間違っていると。勇気ある発言でした。この二人は犯罪者ではないんだと。我々がやれなかった、我々の国の孤児たちに手を差し伸べてくれた立派な日本人なんだと。処刑には値しないと。その瞬間、村人はみんな手を讃えたんですよ。これには北朝鮮の軍人の方がたじろいたようです。そして、人民裁判は即刻中止になりました。2か月後、マッカーサー将軍の率いる連合軍によって木浦は解放されます。大きな試練を越えたかに見えました。本当の試練はこれからだったんです。皆さんも経験しているように、本当に大きな苦労した後は、これが最後かなと思うと、本当の試練は後にあるという場合があります。訓練に過ぎなかったんだと。
 第3の試練、この時、孤児は400人を越えたんですよ。子供が400人です。我々がリアカーを引いただけでは到底400人を養うことができないから、ご主人は、僕は光州という大きな都市に行って、支援活動をし、食料を取りに行きたいと言いました。奥さんは反対したんです。共産ゲリラは、まだ潜んでいるというではないですか。あなたは狙われているから、捕まるかもしれないから、行かない方がいいよと説得したんです。しかし、彼は大丈夫だよと。そして、にっこり笑って向かったそうですが、それが夫婦の最後の別れになりました。二度と帰ってまいりません。行方不明になった。奥さんは泣きながら光州に訪ねて行きました。旦那さんが泊まったという宿屋に聞くと、ある日、3人の男が来て、あんたのご主人を連れて行ったと。それっきり帰ってこないんだよと。多分、殺されただろうと言いました。
 千鶴子さんは信じませんでした。彼女はこれから何年もの間生きていきますが、この事実を絶対に受け入れませんでした。必ず夫は帰ってくる。その夫に対する愛情が彼女を支えていくのです。しかし、背後には400人の孤児がいる。夫はいない。外見から見れば絶望的状況です。周囲の人はみんな反対したんです。日本に帰りなさいと。帰った方がいいよと。あなたはもう家に日本に帰ったところで、誰も反対しない。あなたがどんなに一生懸命孤児たちの面倒を見たかみんな知っているから、誰も責めないよと。だから帰ったらいいと。でも彼女は帰りませんでした。母は逃げないとはっきり言いました。
 この子たちは私の子供であり、母は逃げないんだと。だから、私はこの子たちを立派に育てていく。どんなに苦労しようと母は逃げないんだと。こう言いました。そして、彼女はこの瞬間から日本人であること捨てたんです。しゃべる言葉は、一切日本語は話しません。全部韓国語を話すようになります。それまでは少しまだまだでしたが、孤児たちから学んだんですよ。おはようはどう言うのとか、ご飯を食べるって韓国語でどう言うのとかは孤児たちから学んだのです。そして、髪型も全部変えました。着るものもチマチョゴリ、朝鮮の服に着替えました。誰が見ても韓国の、朝鮮の人に変わったんです。そうでなければ朝鮮の母にはなれないと思ったのです。
 こうして彼女は、来る日も来る日も苦労を続けていきました。ところが難民は増えるばかりなんですよ。北朝鮮からどんどん難民が来るのです。そして、その難民の人は、子供の面倒を見れないので、これをみんな玄関に捨ててくんですよ。ですから、毎日玄関からは子供の泣き声が絶えませんでした。それを全部引き取っていきます。ただ食料は不足していくので、子供たちは死んでいく子供も多かったのです。彼女は亡くなっていく子供の体をきれいに拭いたそうです。そして、その子を一つの部屋に寝かせる。もう息は引き取っています。でもまだ体に温もりがあります。彼女はその横に一晩ずっと寝てあげたそうです。母の愛を失ってかわいそうだねと。せめて最後の最後まで母はいたよと。この情感を伝えて、来る日も来る日もそれをしたそうです。
 このような活動は、やがて韓国の大統領の心を打ったんです。国を動かすものは愛です。愛が本当に深いと、ついに国を動かすようになるんだと。韓国の大統領は感動しました。そして、韓国の最初の女性に対する国民勲章を千鶴子さんに与えたのです。あなたは日本人でありながら、我が国の国民でさえ世話をできなかった孤児たちに手を差し伸べてくれた。あなたは人類愛の人である。そう言って勲章を与えました。千鶴子さんはこう言ったという記録が残っています。私には与えられる勲章はありません。もらうべきなのは夫ですと。最ももらうべきものであり、本来、すべての恩恵は孤児に行くべきですと言いました。また大統領は感動しました。それから2年後、奇跡ともいうべき怨讐の中の怨讐とも言うべき日本と韓国の国交は回復されるのです。
 確かに政治力もありますが、この人の愛が韓日日韓の国交の回復の種になったことは間違いないのです。怨讐ある同士の国が、ひとつになる道は愛しかありません。どれだけその国の人を愛したか。それが国を動かした証拠であります。愛は国境を越え、愛は敵対同士だった国を一つに結びつけたのです。しかしながら、彼女は国交を回復した後、日本にも参りました。そして、日本から藍綬褒章をもらっています。両国から勲章をもらった女性になりました。しかし、体は限界を越えていたんです。倒れました。緊急病院に入院しました。それを見て取った医者は首を振ります。もう駄目ですと。助かる見込みはありませんと。肺がんが全身を覆っていますと。よくこれまで放置しましたねと。もう難しいですと。治る見込みはないけれど、せめて手術か治療する場所はソウルしかありませんと言いました。
 だけれど、入院するお金がなかったんです。この入院費は、孤児たちが死に物狂いで集めました。あるものはタクシー運転手をし、ある者はバイトをし、そのお金を集めて入院費にあてがあったのです。母のためにと言い合いました。しかし、彼女はその入院費を受け取りません。これは全部孤児に回して下さい。千鶴子さんが意識不明になる3日前、献身的に支えたのは長男でした。私はこの長男の歩んだ記録を見ると、涙なしには読めません。子供に母がいました。大きな仕事を長男に受け継ぐということは難しいことなのです。
 長男は八歳の時に、父の最後の笑顔を見た限りお父さんはいないんです。偉大な母という人だけを見続けましたが、一度も愛されたことはないと思っていました。この方は完璧に子供を捨てたんですよ。誰のために。孤児のためにです。孤児と自分の子供を一切区別しませんでした。もしこれをしたら、孤児が悲しみ、寂しがるからです。結局、あの方は自分の生んだ子供だけを大切にし、僕たちは孤児として扱うんだと思った瞬間、恨みに変わるんです。だから、この方は、区別は一切しなかったのです。これを一番体で感じていたのは長男だったのです。長男はこう言っています。母は私を愛してくれなかったと。僕は、皆が寝静まった後、母はこっそり僕を部屋に呼ぶべきだと。そういうことがあっていいではないかと。そして、僕にあなたは私の生んだ子だから、チョコレートをあげるよとか、あなただけにクッキーあげるよと言ってくれることを待っていたんだと。だって僕は実子ではないかと。一度もなかったと。
 運動場で遊んでいた時、母親が通り過ぎるときがあった。僕はその時、お母さんと叫んだんだと。母親は黙って通り過ぎていったと。だから、僕は悲しくなって、木浦の海の海岸に行き、思い切って母親の名前を叫び、そして、砂をつかんだと。帰ってきて、母の食べている食事に入れたこともある。思い切ってグレた。反発をした。もう勉強もしなかった。そして、常に母をイラつかせた。なぜか。母の愛が欲しかったからなんだと。母に振り向いてほしかったんだと。だから、僕は思い切ってグレたんだと。驚いたことに、この子の恨みは20年続くんですよ。そして、それが解けたのは、母が意識不明になる3日前だったんです。魂が本当にグレました。
 3日前、入院した入院室で、この子は献身的に見ました。その時、母親に聞いたのです。お母さんはどうしてあえて苦労し、日本人なのにそこまでやり続けたのかと、一番聞きたいことを聞きました。これに対する母親の一言が彼の恨みを解いていくんですよ。どうしてこんなに苦労したのと聞いたら、母があえぎあえぎながら答えたのは、お父さんの為だと言ったことなんです。長男の種は父親です。母はこれを蒔いて花を咲かせ、実を実らせましたが、種は父親です。長男と父親との関係は、神秘的以上越えた柱になっています。実は、彼は母を恨んでいましたが、その根底にあったのは、お母さんは父を忘れたのではないか。お母さんの心の中から父は消えたのではないかという思いがあったのです。
 しかし、母親は私が頑張ったのは、お父さんの為なんだと。私は今でもお父さんが生きていると信じている。死んでは絶対にいない。必ず帰ってくる。そして、帰ってきた時、お前はよく頑張ったなと、立派に孤児院、共生園を守ってくれたねと言って抱きしめてくれる。それを信じてやり続けたんだと。私の心にはお父さんしかいないんだよと言ったのです。この瞬間、長男の恨みは、まるで解けるように消えていったようです。母は父を愛していたという、これを確認した瞬間、恨みは消えたそうです。それから、彼は事実その後、母親の事業、お父さんの事業を全部引き継いで、僕は父ちゃん母ちゃんのやったことを引き継ぎ、もっと発展させると決意し、事実そうしているんです。
 やがて母は意識不明になりますが、何かもがきながら言っています。何を言っているのかよくわからない。だから、彼は母の口元に耳を近づけて何を言っているのかなと聞きました。おそらくそれがこの地球上で最後に母が語る言葉になっていきます。その最後に言った言葉は、梅干しが食べたいと。小さい頃食べた。これが最後の言葉になりました。彼は泣きました。お母さんが本当は美味しかったのは、日本の料理だったのではないか。梅干しというものに象徴される日本の食事が美味しかったのではないか。そして、日本の言葉を話したかったのではないか。それをこの韓国、朝鮮の孤児の為に全てを捨てたんだなと悟ったのです。
 ですから、彼は泣きながら病室から出て、市場で梅干しを探し続けます。そして、それを持って帰った時、母親はもう意識不明で二度と戻りませんでした。まだ心臓は動いていたんです。彼は決意します。母の死に場所はソウルではない。苦労した木浦以外にはないんだと。人は生きる場所と死ぬ場所があります。それは苦労に苦労を重ねた、愛した場所。父が本当に苦労した場所。木浦以外にない。だから、ソウルでは死なせないと。これは長男としての最後の役目だと思ったようです。ですから、夜行列車に乗せて、看護師と医者を連れて人工呼吸をさせながら木浦にいきました。
 時に1968年10月31日、この日は千鶴子さんが生まれた日なのです。誕生日に息を引き取るんですよ。人間の生命とは誰かの為に与えられています。そして、その生命を通して幸せになる人がいるからこそ命を与えられているんだと。それをこの人は、はっきり示しました。誕生日に息を引き取るという。午後2時と記録されています。共生園の子供たちは皆泣きじゃくりました。多くの涙声の中で彼女は地上で最後の息を止めます。葬儀が行われます。この時、市長は決意するんです。それは、市民自体が願ったんですよ。この日本女性は、市で葬儀をするべきである。市民が願ったのです。そして市長は決断しました。こうして市民葬は行われました。
 この方の人生は本当に涙に濡れたものでしたが、その日は雲ひとつなかったそうです。17歳のある女性が、3000名の孤児を代表して弔辞を述べました。この弔辞は涙で濡れていたので、聞き取る人も泣き、聞き取れませんでした。彼女はこう言ったようであります。種は、手でつかんで土に蒔きますが、お母さんは血で蒔きましたと。血で私たちの心に愛の種をまいてくれました。あなたは涙で愛の種を掴んで、空白の砂漠のような私たちの心に愛の種をまいてくれました。あなたの血とあなたの汗とあなたの涙で父母を失った私たちの空虚な心にタネをまいて下さいましたと。言葉も違う、生活風習も違うこの国に来て、私たちの実母のように私たちを愛してくれましたと。私は知っています。あなたは自分の食べたいものを食べませんでしたね。それを削って私たちに食べさせてくれました。私たちが喉乾いている時、あなたは自分が飲むべき水を口移しで飲ませてくれました。そう泣きながら言いました。だから、お母さんと、あなたに対する恩返しはどうしたらいいのでしょうか。私たちは知っています。立派な市民になることなんだと。税金が払える立派な社会人になること。人様から後ろ指を刺されない立派な人間に育つこと、それがお母さんに対する恩返しですと彼女は弔辞で語りました。
 このメッセージで本当に感動したのは新聞記者たちだったのです。彼らも泣きました。そして、翌日、新聞に今日、木浦は泣いたと新聞に出ました。そして、木浦の母と言われるようになったのです。この生涯が、千鶴子さんという生涯です。彼女は夫を失った時、名前を変えたんですよ。日本人の名前ではありません。夫は尹です。彼女は千鶴子ですが、千を取りました。尹鶴子に変えたんです。そういう生涯でした。日本名は田内千鶴子さん。韓国は名尹鶴子です。こうして全生涯を遂げ、今もなお木浦においては、韓国孤児の母と言われ続けています。この田内千鶴子さんの精神は愛でありました。そして、民族と人種を区別しないという愛であり、これは人類愛であり神の愛であります。これを本当に地球全般に拡大して、皮膚が黒かろうと、赤かろうと、黄色だろうと、何の関係もない。人間である限りにおいて一つであると。人類は皆兄弟なんだと。そして、この兄弟は愛を知らず、愛が分からなくなり、そして、人生の方向性がわからず、互いにいがみ合い、戦い合い、奪い合っている。何故か。孤児だからなんだと。
 天の父と天の母というあまりにも深すぎる愛を知らないならば、既に孤児である。だから、この70億を越える孤児たちの平和の母となって全生涯を捧げて、どんなに悪いことをした人でも7度許し、70度許し、抱きしめていく。私を裏切った人であればあるほど抱きしめていくという。母はそうであると。子供が食べ物がなければ、どんな苦労してもその食べ物を見つけ、病気になれば背負い、医者に断られれば次の医者に走っていく。それが母だと。こうして地球くまなく多くの愛を投入する方が韓鶴子夫人。平和の母です。その一番切なく苦労した場所がアフリカなんですよ。食べ物がなく、黒人奴隷として数千万人がアメリカに送られたことを皆さん知っています。
 皮膚が黒いというそれだけの理由で狭い寝室に閉じ込められ、食べ物を与えられず、病気になれば捨てられてサメが食べたんです。そのあまりにも可愛そうな黒人の解放。生きている人だけではありません。一番悲しいのは恨みを持ってこの世を去った霊となった人たちです。先祖を救うという、先祖の母となる。この霊の母と地上の母となってこの世界に永遠の幸せな天国を建国し、人類一家族世界をつくる。それまでは息を引き取れないと、心に誓って決意している方が平和の母、韓鶴子夫人なのです。是非今日、この方の唇から出た魂の言葉が、与える時はためらうなと。そして、与えたことは瞬時に忘れなさい。それがお母さんなんだと。うんちを洗ってあげる時、子供が叫ぶ時、ためらうお母さんはこの世には存在していない。そのように万民に対してそのようにしなさいという精神を今日、皆さんは筆を取ってここに書く。
 ためらう人もいるでしょう。与えることを躊躇する人もいるでしょう。与えたことを覚えすぎている人もいるでしょう。実はそれが私共を苦しめています。そこを克服して、ためらわず与える人になるために、これから皆様は紙を通して自分の心にこれを刻み、この言葉通りの人になっていくひとつの修行をいたします。それが心の書写なのです。是非、皆様がためらわずに与えて忘れるという、この言葉を持った心の人になって、今抱えている課題を全て克服し、素晴らしい八王子の市民となり、また、東京都民となり、日本国民となることを切に祈りながら私の講話にしたいと思います。ではどうもありがとうございました。
<祝祷>
愛する天の父母様、敬愛してやまない天地人真の父母様、悲しすぎるほどの苦難の情勢の中にあり、父母が行くべき道を失って、泣きながら父から母から手を離され、孤児として見捨てられた子どもたちが、食事ができず、息を引き取っていくその姿を、母として抱きしめながら、既に止まった心臓のその子の体を綺麗に綺麗に心を拭いて洗って差し上げ、その側で一晩寝て、母は共にいたよと、このような愛のぬくもりを伝えたかった人、田内千鶴子さんの生涯を話させていただきました。ためらわず与えて忘れているという人類の涙を拭う平和の母、韓鶴子夫人。人類の全ての悲しい人々のために、悲しすぎるほどの不幸の中に喘ぐ一人ひとり、この世に生まれ生きて、人間としていきながら、幸せを露ほどにも得ずに、悲しい思い、恨みの思いを持って霊界に立たれた数多くの先祖の方々の母として、その一人ひとりに愛を投入しながら、天にあっても幸せだけがある世界、地にあっても国境も民族もない、ただ愛だけの世界を造るべく、人類の母として邁進されている平和の母の愛と涙からこみ上げるその種の言葉を今日、あなたによって導かれた方々が書き記しました。あなたは今日、この東京の中から八王子周辺の中から、あなたの涙で選んだ方々、あなたの愛で選んだ方々が、今日、この場に集うことができました。集ったお一人お一人は宝であります。天の宝であり、そのような宝石よりも輝く、尊い方が集い、あなたの文字を、み言を書きましたが、この一点の条件を持って集いました方々が、大きな幸せを得ることができる道を切り開いて下さい。永遠の道に幸福だけのある幸せの人生に導いて下さることを切に祈るものであります。どうか今日のこの大いなる縁が幸福への門を開門する道となることができますようにと切に祈りながら、祝福中心家庭、浅川勇男の名を通してご報告お捧げ申し上げます。アーヂュ。

【 ためらいなく与えて忘れる 】
 私は与えるのもためらいなく与えますが、与えると同時に、そのことを忘れてしまいます。自分が持っている物を与え、愛を与え、さらには命まで与えても忘れる人が、神様の一番近くに行くことができるのです。
私は足が腫れ上がるまで世界を回り、女性の真の価値と使命、神様の愛について伝えました。それは人々が神様を知らず、真の父母を知らずに、天涯の孤児になることを防ぐためでした。
真の父母に侍って生きるとき、すべてを失った孤児の立場から抜け出し、本当の幸せを手にする神様の息子、娘となるのです。
(人類の涙をぬぐう平和の母P.186)

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