天一国日曜礼拝のみ言(陽暦2020年3月29日)

【 礼拝のみ言 】

天一国八年天暦3月6日(陽暦2020年3月29日)

説教タイトル:「 私は真の父母様によって幸せであるか?  」
説教者:鄭東洙 教区長
  世界でこのような困難を起こす時は初めてだろうと思います。一度も経験したことがない今の時を生きている私たちであります。教会でも今までどのようにすればいいかわからなかったわけであります。インターネット礼拝で、さらに家庭礼拝で、今まで慣れてない状況の中でどのようにすればわからない人たちも結構いる状況であります。今日のインターネット礼拝においてもどのようにしていけばいいか、ただ座って携帯電話を見ればいいか、服は正しく着て礼拝を捧げなければならないか、さらに家族全体が座って礼拝をしなきゃならないのか、でなければスマホで礼拝を見物する内容なのかわからない今の状況だと思います。
 このような部分に対して混乱している今の私たちの状況、この状況を見ると、今まで我々が家庭礼拝を捧げてきたならば全然問題がないと思いますけれども、慣れてない今の状況の中でどうすればいいかわからないことが現実であります。普段、誰が見ていなくても生活自体が礼拝になっている人々には、この期間、より一生懸命努力していけると思います。さらにコロナウイルスが収束した後、集まって礼拝することも恵みがあると思います。
 私たちが本当で言えば、個人個人は神様の聖殿であり、真の御父母様は、私たちに真の御父母様が誰なのか、そういう区分する基準が一つあります。私たちが聖殿であり、真の父母様が私にとってはどういう人であるか、そういう区分の基準、その一つは、皆様が真の御父母様によって幸せであるかということであります。真の御父母様によって幸せになる人は、本当に尊いということであります。とてつもないことであります。しかし、本当に心苦しいことは、真の御父母様によって祝福を受けて、真の御父母様によって生きてる私たちでありながらも、この道を歩む私たちでありながらも幸せではではない人々が結構いるということであります。幸せではないから幸せになるために身悶えしていくということであります。このような人々は本当に真の御父母様によって祝福受けた祝福家庭ではありません。
 皆様、我々は幸せである人なんでしょうか。我々、家族が良く知っています。外に行けば素晴らしい仕事をたくさんする人であり、他の人から褒められる人もいるし、外に行けば実績もたくさん出せるそういう人でありますけれども、本当の姿のその人のものは家族から評価を受けるということであります。家族からその人の評価が出てくるわけであります。皆様の家族は、真の御父母様によって幸せである人だと知っているんでしょうか。私は今まで多くの人々を相談してまいりました。その相談の中で一番多い問題が家庭問題であり、夫婦の問題であります。夫婦問題は大変難しい問題であります。私たちにとってはあまりも難しい問題であり、大変な問題であり、本当に解決しにくい問題であります。その問題が家庭であり、夫婦であります。夫婦問題は、本当に複雑に絡んでいるわけであります。背景も違い、男性と女性の差もあり、各自の性格も違うし、親との関係、子供との関係で複雑に絡んでいる問題であります。
しかし、夫婦問題の正確なポイントは、幸せではない男性と幸せではない女性が出会って、お互いに自分を幸せにしてほしいという徹底的に要求するその問題から生じるこの問題が夫婦問題であります。ですから、問題が本当に難しくなっている状況であります。我々が真の御父母様によって十分に幸せな人にならなかった場合は、配偶者から幸せを求めていくために、本当に要求されていくために生活をすることでお互いに好かれて、そういう状況の中でどんな神様を話したとしても通じないと思います。我々の本質をよく知らなければなりません。我々が大変な理由は配偶者ではありません。子供の問題でもありません。経済的な問題でもありません。結局、問題は自分自身の問題のためであります。私自分自身を幸せにしてくれ、理解してくれ、終わりなく自分の欲求を満足してくれという風に言われている、この内容がお互いに家族を大変にさせる。そういうことであります。
 ですから、自分自身も大変であります。癌の診断を受けると、どれくらい目の前が真っ黒になるんでしょうか。もう心が崩れるそうであると思います。しかし、自分自身の中にがんと真の御父母様と何が最も重要であるか、皆様知っておられるでしょうか。自分の中に癌があり、真の御父母様が共におられる、どっちが重要なんでしょうか。理論的には真の御父母様がより重要だとみんな知っています。そうですね。私の中に癌もあり、私の中に真の御父母様がおられるのに、理論的にはよく知っていますけれども、真の御父母様が重要であるという、これが区分できない方が結構おられるわけであります。癌の診断を受ければみんなが死にそうな心で生きていきます。比べられることができないぐらいの、その人の心の中に理解できない行動が起きているわけであります。
 このように私たちが考えられない生き方をしているわけであります。信仰は信仰、生活は生活という風にしている状況であります。我々の生活の中で霊的な目が開かれることが、我々の人生でどれぐらい重要であるか本当に分かりません。どれぐらい重要であるでしょうか。イギリスのある人が、子供たちがクリスマスになると靴下を外にかけているんですね。この方がその話の例題をしていました。子供たちが靴下をかけているとお父さんお母さんが子供にクリスマスのプレゼントを靴下の中に入れておきます。朝に起きているとサンタクロースがプレゼントを置いていたとこういう風に思って子供たちは喜びます。
 人間が本当に喜ばないとことは靴下の中に入る自分の足であるということを言われていました。私の二つの足があるということは、自分自身の足が二つあるということ、足があって靴下に入ることができるということにありがたく思わないといけない、喜ばないといけないのに子供たちは、靴下の中にお菓子やおもちゃが入っている事に喜ばれるとそういう風に言われていました。皆様、自分の足とお菓子とおもちゃとどちらが重要なんでしょうか。お菓子やおもちゃは私の足と比べられないほど重要なものであります。しかし、子供たちは靴下の中にあるお菓子やおもちゃを見て、それぐらい喜びながら嬉しく思うわけであります。子供たちは自分自身が靴下の中に足を入れることができる、それが知らないことであります。
 子供だけではありません。大人も誕生日の時に誕生日ケーキですね。プレゼントもらった時に、そのプレゼントをもらったら大変喜ぶじゃないでしょうか。プレゼントをもらわなければ覚えてくれる人もないし、大変、心が何ですか寂しく思われじゃないでしょうか。しかし、自分が生まれることができたこと、さらに自分がこの世に生まれることができるようにしてくださった命をくださった神様に感謝することを本当にわからないことであります。誕生日のケーキ、そして誕生日のプレゼントと命を与えてくださった神様と比べられないことであります。ですから、我々がそれぐらいしかならない人間であります。
 重要なことと重要ではないことを区分できない人間であります。ある方の話がありました1991年11月21日の日に、子供が生まれたんですね。自分の子供が生まれ、その時に遺伝的に珍しい病気で生まれて、産まれてから2分後に亡くなったという人の話しでありました。生まれてから2分後に亡くなった子供、それで3ヶ月後に2歳になった娘が死んでしまいました。彼はとてつもない喪失感ととてつもない悲しみで神様に祈祷していきました。神様、2歳の子供と2分で生まれたその子がこんなに命を落とす、連れていこうとする神様だったら、何故私たち、私の子供をこんなに下さったんでしょうか。そのように涙で祈祷する時に神様からくださった声がありました。そうではない、子供を2分だけ生きるためでも創造したことでもありない、2年だけ生かせるために創造したことでもない、神様は40年50年あるいは100年生かせるために創造したことでもない、全人類を子供たちを永遠に暮らせるために創造した。そういう声を聞くようになりました。この話を聞いて子供が2分だけで生きるために創造したではなく、2年だけ生きるためにこの子が生まれたのではなく、自分の子供は神様の中で永遠に生きるために生まれたんだ、ということを心から整理したことによって、彼は本当に喜びが出ていきました。
 耐えることができない悲しいと理解できない神様の役事の中で、本当に恨みに対する心の底から出てくる恨みがなくなってしまいました。このように私たちが霊的な目が開いていかなきゃなりません。何よりも重要なことが、私たちは、目がこのように開かれると我々の心と考えが変わってきます。私たちは真の御父母様によって幸せな人であることを目が開かれていかなければなりません。私たちはこれ以上難しいことがなければいいな、こんなに私たちは願われることが全てがなされたらいいなと、それが幸せの条件として考えたらいけません。難しいことがないことに焦点を合わせることではなく、私たちの焦点はどんな苦難の中でも、何事もないように考えるぐらい、そういう秘密を発見することであります。どんな苦難が来たとしても自分には関係がない、どんな苦難が来たとしても私は幸せであり、そういうものをつかむことが私たちの人生であります。そのような私たちにならなければなりません。それを理解できなければ今日のみ言であるイエス様が語られた山上の垂訓の8つの福に対して理解できません。
 皆様の心の中にこのみ言が伝わらないと思います。私たちがこのみ言を見れば、幸いである人の話が出てきます。このみ言を見れば、私が現実的に見ると幸いである人たちの話、この話が幸いではありません。福がある人のように見えません。しかし、このみ言の中では、その道が福があると言われました。福があるそういう言葉は幸せであるということであります。どのように皆様が心の貧しい人々が幸いである。さらに、悲しむ人々が幸せである。こういう人がどうして幸せだと言えるでしょうか。
 イエス様が、そのような人々たちが幸せであるということ、それだけではないとこう言われてるんですね。なぜ心の貧しい人が幸せであるか、悲しむ人が幸せであるか、それは神様との関係が深くなるからであります。だからこそ幸せであるということであります。心の貧しいこと、悲しむこと、憐れみ深いこと、迫害され悪口を浴びさせられること、これが幸せであること、こういう風に言われました。そういうことでより神様を見る目を、それがより深くなるし、そういうことで神様をもっと渇望できるし、眺める目を開くことができるということであります。神様が人間を創造する時に、神様を愛し、神様の中にいなければ我々は幸せになれないという風に創造しました。ですから、全ての物を持ったとしても人間は不足であるということをいつも感じます。
 真の御父母様を本当に知らなければ全てのものを備えていたとしても幸せではありません。民族と国のために世界のために泣きながら、本当に涙を流しながら、私たちが今この時祈祷する、そういう人たちが福がある人であります。神様のために迫害を受けてる人、悪口を受けてる人、非難を浴びてる人、そういう人々が福がある人であります。
 皆様、今現在いいことか悪いことかそういうことが基準ではありません。我々はまだまだ幼いから、いつも裕福であればいいと、いつも喜びがあればいいと、いつも自分を苦しめる人々と一緒にいたくない、いつも私がちょっと休めばいいと、こういう考えはまさに幼い考えであります。これが多くの人たちは、幸せだと考える人たちもいます。しかし、その人たちは神様に対する渇望はないことであります。魂をまるで殺させる、そういうことであると思います。一般的には幸せだと思えるといいますけれども、一番悲惨なことであります。真の御父母様に向かう渇望がおきることが本当に幸せな人であります。皆さん、このような人がいるならば、他の人々にはない懇切な祈祷が出てくると思います。
 徳島で私がいる時に、一生懸命活動したある婦人が、韓国にお嫁に行った方の話があります。彼女が書いてるこの内容でありますけれども、この彼女の話を聞くと本当に彼女はいつも神様に祈りながら神様を求めて、神様のために、神様によって幸せを求めるそういう彼女でありました。
 彼女の話であります。彼女が書いてるこの内容であります。33歳になる夫と生活するようになりましたが、言葉も通じず、経済も大変でした。財布には2000ウォンしかなく、母乳が不足して、粉ミルクを与えなければいけなかったのですが、粉ミルクを買う4000ウォンがありませんでした。そして私は神様に祈祷しました、終わるなり突然男性2人が来て、家の庭にある石を8000ウォンで買って行きました。そして1回は生計が難しく、40日間徹夜祈祷したのですが、40日が終わる日に就職が決まりました。ある日、夫が急に痛くて、救急車に運ばれましたが、悪性肺がんの宣告を受けました。義理の母には話すことができず、子どもたちとともに今後どのように生きなければいけないのか、夫に何を言って手術を進めなければならないのかわかりませんでした。神様にお願いするしかありませんでした。手術日に訪れていくと天使が夫の手術室に入っていく姿を見ました。
私は今大丈夫なんだなという風に思いました。30分が流れ、手術室から先生が出てきました。先生が言われたのは奇跡です、検査の時、悪性の癌が出てきたのですが、手術してみると悪性の癌ではありませんでした。本当に奇跡です。あなたは統一教会の人でしょう。神様が助けてくださったと思いますと言われたのです。人々は、最初に検査が間違っていただけだと言われていますが、私は天使を見たので、神様が助けてくださったと信じます。2013年、夫は基元節に参加してから、その後、陽暦で6月13日に夫が聖和されました。何回も死んで生きてきた命でしたが、真のお父様が好きだった夫は、真のお父様と共に霊界で活動しようとして行ったかと思いました。真の御父母様が支持された氏族メシヤをここで勝利できなかったことを痛みながら、平和大使の組織だけは必ず勝利して親孝行すると、平和大使を集めて2ヶ月に1回づつ定期的に集まりをしながら活動してきた夫でありました。そして、今は夫の願いを私が必ず成し遂げたいという引き受けた昨年、初めて平和大使の教育を実施していきながら私は参りました。本当に神様が保護されて、勝利でき、その日の午後、虹がかかっていることを見て、天が祝福していたという風に思いました。入教してから今まで苦難の道でしたが、その場で 天の父母様、真の御父母様が共におられることを知っています。
このような彼女の証しであって、本当に胸が締め付けるぐらいの頃があったとしても、真の御父母様に帰って、真の御父母様によって幸せになろうとする、身悶えするその生き方をしているその夫人でありました。皆様、神様が今日皆様に皆様たちに現在の生活がどんなことがいいか、どういうことが悪いか、そういうことですね、皆様にとって判断しないで生きることを願っておられます。
 皆様が幸せの基準が明らかになっていくと、そういう判断が現在の内容見て判断して評価すると思います。幸せの基準が明らかにならなければ、決して皆様は何をしたとしても幸せになれないことであります。そうすると一生涯幸せを求めて行くために、皆様は人生が終わると思います。皆様の周辺を見てください。皆様が見れば、あの人はよく生きてると思いますけれども、しかし、そういう人に会うと、その人は自分だけこの世で一番不幸だとこう言われています。自分だけが一番寂しいだと言われています。神様が自分だけの祈祷を聞いてくれないとこういうに言われています。その人がなぜそんなに不幸であるか、そういう風に分からないからであります。
我々も同じであります。幸せの条件が分からなければそのように生きていきます。真の御父母様は良いこと、喜ぶことがなかったとしても幸せになれるとこう言われていました。悪いことがあったとしても喜ぶ事ができると言われました。
 私は牧会をしていきながら、本当に勉強したいということがたくさんありました。いろんなことを勉強していかないといけないので、しかし、神様私にそんな時間を与えてくれなかったのです。今まで毎週説教してきながら、さらに月曜日まで説教をし、ある時には水曜日の夜の祈祷会の時も説教する時もありました。一週間3回、あるいは毎日何か準備していかないといけないそういう時もありました。そういう説教をするために自分自身が勉強しないといけないと、大学にもより行って専門的に学ばないといけない。しかし、自分が大学で勉強した学問と牧会とは全然違った内容でありました。
ですから、いつも牧会をしながら、自分自身が足りないことをわかっていました。ですから、自分にとっては金曜日になるとさらに土曜日になると、なぜこんなに金曜日と土曜日がこんなに早く来るか、この説教準備がストレスでありました。準備のために勉強もしなければならないし、本もたくさん読まないといけないし、しかし、多くの人たちが会いたいと言われて連絡が来ます。もう会いたい人たちが結構いるわけであります。ただ会いたい人たちをですね、連絡が来るといつも心苦しいという時があります。もう要求があるので、会ってあげないといけない、そういうことで、しかし、時間があまりないから心苦しいという時があります。しかし、過ぎ去ってみると嫌なことでも、忙しいことでも、私にとっては福であることでありました。神様は自分自身をこのように訓練させたということを本当に私は感じました。
神様は自分でしよう、こんなに大学に行かせなくてもこういう現場で訓練をさせたということを私は実感します。ですから、基準がどこに置くかによって変わっていきます。時間がないからより神様との関係が深くなるし、そういうことでより神様に対する渇望とですね、願いがですね、ある日より天の前に祈祷する内容で、その方をより知ることができる、そういう福を与えてくださいました。今日、映像で参加する皆様は、このみ言の恩恵を受けて、そうだなというに考えないでください。皆様が今日も良いみ言聞いたねとこのように終わったらいけません。このみ言が皆様の人生に、結論にならなければなりません。
 何が幸せなんでしょうか。一番、真の御父母様と近くなることが幸せであります。真の御父母様によって幸せになるということが本当に重要であります。今日、この時間、幸せの基準が皆様の心の中に注がれる、そういうことで心から賛美が出て、喜びが出て役事するこの時間になることを祝福いたします。真の御父母様によって幸せになる皆様になっていけるように祝福したいと思います。真の御父母様によって皆様が普段の生活が現在の生活と関係なく、真の御父母様よって幸せになる皆様になればいいかなと、本当にこの時間み言のようになる皆様の人生になってもらいたいと思います。この一週間、真の御父母様の恩恵が天の父母様の恩恵が伴うこの一週間になればいいかなと思います。

 

<御言葉の訓読>
 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
(幸い)
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

マタイによる福音書5章1~12節


過去の礼拝のみ言


教会行事案内
天一国日曜礼拝
日時:4月5日(日)開会:10:00
場所:インターネット中継

 

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