真なる愛は、与え、また与えてもなお与えたい心です

真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です。真なる愛は、愛を与えたということさえも忘れ、さらにまた与える愛です。
私は生涯、そのような愛に酔って生きてきました。愛以外には、他のどのようなものも望んだこともなく、貧しい隣人たちと愛を分かち合うことにすべてを捧げてきました。
愛の道が難しくて涙があふれ、膝をへし折られても、人類に向かう愛に捧げたその心は幸福でした。今も私の中には、いまだすべて与えきれない愛だけが満ちています。

(文鮮明先生自叙伝5~6ページ)

愛の本質とは何でしょうか。
愛の本質とは、人に何かをしてもらおうとする思いを捨てて、人のために、全体のために先に与えて、為に生きることです。
与えても、与えたという事実そのものを忘れてしまい、絶えず与えるのが愛です。それは、喜んで与える愛です。母親が子供を胸に抱いてお乳を与えるときに感じる喜びの心情がまさにそれです。

(文鮮明先生自叙伝220ページ)

私を憎むものまでも、ひたむきに愛そう

人を疑えば、苦しみを覚え、人を裁けば、耐えがたくなり
人を憎めば、もはや私に存在価値はない
しかし、信じてはだまされ
今宵、手のひらに頭を埋めて、苦痛と悲しみに震える私
間違っていたのか。そうだ、私は間違っていた
だまされても信じなければ
裏切られても、赦さなければ
私を憎むものまでも、ひたむきに愛そう
涙を拭いて、微笑んで迎えるのだ
だますことしか知らないものを、裏切っても、悔悟(かいご)を知らない者を
おお主よ! 愛の痛みよ! 私のこの苦痛に目を留めてください
疼くこの胸に主のっみ手を当ててください
底知れぬ苦痛に心臓が張り裂けそうだ
されど、裏切った者らを愛したとき、私は勝利を勝ち取った
もし、あなたも私のように愛するなら、あなたに栄光の王冠を授けよう

(文鮮明先生自叙伝64ページ)

愛天、愛人、愛国

天を愛し、人を愛し、国を愛する教育をしたいと思ったのです。
私は仙和芸術学校を作り、「愛天、愛人、愛国」というとても大きな揮毫を残しました。すると、ある人が「韓国固有の文化を世界に誇ると言いながら、どうして愛国を最後にしたのか」と尋ねてきました。私は「ある人が、天を愛し、人類を愛したなら、その人はすでに、そのことによって国を愛したのです。愛国はおのずと完成します。」と答えました。

(平和を愛する世界人として 165ページ)

私の教育理念は、仙和芸術学校を建てたときと同じく、天を愛し、人を愛し、国のために働く人材を育てることです。
学校は、真理を教える聖所のような所です。学校で教えるべき最も重要な真理は何でしょうか。
一つ目は、神様を知って、その存在を現実の世界に顕現させることです。二つ目は、人間存在の根源を知り、自分の責任を果たし、世界の運命に責任を持つことです。そして、三つ目は、人類の存在目的を悟り、理想的な世界を建設することです。

(平和を愛する世界人として 294ページ)

家庭は天国の出発点

家庭は、神が創造した最高の組織です。また、人類が互いに愛し、平和に暮らすことを学ぶ愛の学校であり、世の中に平和の王宮を立てるための訓練道場です。為に生きる夫と為に生きる妻として、そして永遠の愛の道を行くための夫婦として、その責任を学ぶところです。
家庭は世界平和のためのベースキャンプなので、息子、娘が「お父さんとお母さんが喧嘩する姿を、生涯一度も見た事がない」というようにならなければなりません。

(平和を愛する世界人として 217~218ページ)

父母は、子供たちにとって第二の神様です。「神様が好きか?お父さんとお母さんが好きか?」と尋ねて、「お父さんとお母さんが好きです」と答えたら、それはすなわち「神様も好きだ」という意味です。教育の最も大事な部分を担っているのが家庭です。幸福も平和も、家庭の
外にはありません。家庭こそが天国です。いくら莫大なお金と名誉を持ち、世界をすべて手に入れたとしても、健全な家庭を築くことができなければ、その人は不幸です。家庭は天国の出発点だからです。夫婦が真実の愛で結ばれ、理想的な家庭が築かれたら、宇宙と直接連結されます。

(平和を愛する世界人として 218ページ)

全世界の人類がすべて自分の兄弟

グローバルリーダーは、地球上のあらゆる問題を自分の問題と考え、それを解決しようとする開拓者の精神を持たなければなりません。安定的で固定的な所得に執着したり、退職後の年金と平安な家庭生活を夢見たりする人は、グローバルリーダーになることができません。
未来に何が待っているかよく分らなくても、世界がすべて自分の国であり、全世界の人類がすべて自分の兄弟だという意識があってこそ、グローバルリーダーになることができるのです。兄弟とは何でしょうか。神様はなぜ、私たちに兄弟を下さったのでしょうか。兄弟は全世界の人類を象徴をします。私たちは家庭の中で兄弟を愛する経験を通して、人類を愛する人類愛、同胞愛を学びます。兄と姉を愛する心がそのように広がるのです。
お互いに愛を分かち合う家庭の姿は、人類が互いに融和する姿と同じです。たとえ自分が空腹でも、兄弟のためにご飯を残すことのできる愛が兄弟愛です。グローバルリーダーは、まさに人類を相手に兄弟愛を施す人です。

(平和を愛する世界人として 218ページ)

私は今、正しく生きているか

自分の最も親しい先生は自分の良心です。最も親しい友人よりも貴く、父母よりも貴いものが自分の良心です。ですから、一生を生きていきながら、最も親しい先生であるこの「良心」に「私は今、正しく生きているか?」といつも尋ねなければなりません。
良心が自分の主人だという事実を悟り、心を磨き、生涯親しく過ごしてみれば、誰もが良心の声を聞くことができます。良心が涙をぽろぽろ流して泣く声を聞いたら、その時にしていることはすぐに止めなければなりません。良心を苦しめることは、自らを滅ぼすことだからです。
良心を悲しませることは、結局、自らを悲しみに陥れることです。心を明るくし、清めようとすれば、世の中の喧噪を離れて、私と私の心、この二つだけが対面する時間が必ず必要です。とても孤独な時間ではありますが、心と親しくなる瞬間こそ、私自身が心の主人になる祈りの場であり、瞑想の時間です。

(平和を愛する世界人として 234~235ページ)

影のない人生を生きる

死を語らないまま生を語ることは出来ません。生の意味を知る為にも、私達の死とは何かを正確に知らなければなりません。どのような生が本当に価値あるものなのかということは、今すぐにでも死ぬかもしれない窮地に追い込まれ、一日でも長く生きようと天にすがり付いて泣き喚く、そのような人こそが知り得るものです。それ程貴い一日一日を、私達はどのように生きれば良いのでしょうか。誰もが渡って行かなければならない死の境界を越える前に、必ず成し遂げておくべき事は何でしょうか。
最も大切な事は、罪を犯さず、影のない人生を生きることです。何が罪なのかという問題は、宗教的に、また哲学的に多くの論争の種になりますが、はっきりしていることは良心が躊躇する事をしてはならないという事実です。良心に引っ掛かることをすれば、必ず心に影が残るのです。

(平和を愛する世界人として 238ページ)

陰徳をうけたときは、必ず、もつと大きくして返す

 いくら小さなことでも、いったんお世話になったら生涯忘れることができません。年が九十歳になった今も、いつ誰が何をしてくれたか、また、いつ誰がどのようにしてくれたか、すらすら話すことができます。 私のために苦労を惜しまず、陰徳を施してくれた人たちを生涯忘れることができません。陰徳をうけたときは、必ず、もっと大きくして返すのが人の道です。
しかし、その人に直接会えないこともあるでしょう。恩恵を施してくれた人に直接会えなかったとしても、大事なのはその人を思う心です。ですから、その人に会えなくても、受けた恵みを今度は他の人に施そうという一途な心で生きるのがよいのです。

(平和を愛する世界人として 77ページ)

 自然は神様が下さったものです。神様は自然を通して私たちに語りかけます。一瞬の快楽とわずかなお金のために自然を破壊するのは罪悪です。私たちが破壊した自然は、巡り巡って、害となって私たちに返ってきて、子孫を苦しめることになります。私たちは自然に帰り、自然が話す声を開かなければなりません。心の門を開き、自然の声に耳を傾けるとき、自然の中から伝わる神様のみ言を聞くことができるのだ、とアメリカの若者たちに話しました。

(平和を愛する世界人として 185ページ)

心の門を開き、自然の声に耳を傾ける

 春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることができなければなりません。自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも貴いのです。
自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実体的な存在です。
万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。

(平和を愛する世界人として 52ページ)