【ユダヤ・キリスト教講座「第3回」】

天一国元年天暦10月9日(陽暦2013年11月11日)

石丸先生をお迎えして、「日本のキリスト教史」というタイトルで講義をして頂きました。
以下に、概略を記載します。
日本におけるキリスト教の後半部分をお話していきます。

Ⅰ.キリスト教という生き方。

実際のクリスチャンの生き方、キリスト教が2000年間追求してきたものは何なのか。プロテスタントがカトリックに対抗するために出てきたのが、信じれば救われる。というものが広がり過ぎてしまったが、そうではなく、きちんと生き方にされてきたのが本来のクリスチャンでした。
トマス・ア・ケンピス。この方の生き方は宗教改革をしてきたルターが読み尽くした本である。「キリストにならいて」キリストの生涯にならいてこそ全ての教理に勝っている。
キリストの生涯に照らして自分を訓練すること。2000年キリスト教が本来目指してきたもの。メシヤは御言の実体と思っていた。「お父様が原理を研究するなら先生を研究せよ。」キリスト教徒のコアのメンバーはキリストの生涯に焦点をあてて生きて来た方が実際にいた。
外から響く声を聞かず、内から教える真理を学ぶ耳、目である。そして自分の心を神にあて高めようと務める。旧約聖書の詩篇、聖書の中の賛美歌集です。民族が神に呼びかけ賛美した。主の道に歩む人は幸いである。
クリスチャンたちは、新約聖書だけではなくて、旧約聖書の内容も受け入れながら主に侍っていた事がわかる。聖書の中身をただ読むだけではなく、そのことを通してキリストに習おうとして来たクリスチャンだった。世の中には見えないものを修道者たちが求めてきた事実。そこから後の宗教改革者たちが出てきたという事実がある。
キリスト教の人生観「イエスキリスト聖霊によって新しい命に生かされた人がイエスの生涯と使生徒たちの生き方に倣い、神の子として完成向かって歩む人生。
霊性(スピリトゥアリタス)、今の言う霊が見えるという内容とは違う。みそぎによって罪を拭う?また罪を犯したらまたみそぎ?違う一度きりのものであり、また水によって清められる?では無い。一度死ぬことであり、もう一度生まれ変わって出発すること。
イエス様を十字架の死、弟子たちが自ら主を裏切りイエスを殺してしまった痛み、悔い改め。イエス様が復活し弟子たちは許された(裏切ったけど許された)聖霊体験から僕の立場から子女の立場へ引き上がっていった。イエスの許しの愛から兄弟愛に生きる。共同体型成=教会(エレクシア)⇒再臨の待望・・・未来のビジョン希望となった。カトリック「フランシスコザビエルは修道司祭(清貧・貞操・従順)(独身生活)」

Ⅱ日本のキリスト教史の諸相

戦国大名がキリシタン大名に。日本最初のキリシタン大名は大村純忠(1533ー1587)大名では一夫一婦性を貫いた方。(当時では考えられない事)
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ宣教師(イエズス会)1579年東インド管区巡察として来日。宣教の為の財政システムの問題点を修正し経済活動をしながら宣教活動の道をより開いた。x教育の為の聖職者養成の学校建設(セミナリヨ)そのことで、日本人の未来をになう聖職者になる道を作った。
当時の宣教師の中でも強制的にクリスチャンにしていこうとする人もいたりした中で、アジアなどの管区全体の責任者として来日された。天正遣欧少年使節4人の優秀な青年が8年間留学の様な立場でいかれた。国賓待遇であった。当時の国王や教皇にも謁見。それだけでは無くて、他のメンバーをポルトガルへ送り、出版機械を学び印刷機械を購入して日本に帰ってきた。
しかし日本は織田信長が殺され、豊臣秀吉が天下を取り、伴天連追放令をだした。しかし国王からの派遣で来た事で入国を許され、秀吉と会う。そこで驚いたのはメンバーの優秀な姿。しかし何度もお願いしたが、弟子にはならなかった。4人の青年使節団。伊藤マンショ。千々石ミゲル。原マルチノ。中浦ジュリアン。中浦ジュリアンの壮絶な殉教。迫害したのも私たちの先祖だが信仰を貫いたのも私たちの先祖であった。
日本二十六聖人殉教。1597年2月5日(慶長元年12月19日)豊臣秀吉の命令によって長崎で26人のカトリック信者が処刑された。日本で初めての殉教。秀吉は、「日本は神国。故に他宗教はいらない。またヨーロッパの力を行使する宣教師がいたりと深刻化していった。」26聖人の処刑は複雑なものがあります。アベル圏のキリスト教徒側の一体化の問題。
イエズス会の他の宣教団が勝手に強行したり様々であった。彼らは専門的な教育を受けたわけでは無く、また聖職者になるべく方々でもなかった。14歳の少年の遺言をこっそり書いて後に見つかった物、私は父様と一緒にイエス様の元に行きます、故に心配しないで下さい、唯一の心配は信仰をもってない母である、信仰を持って同じ所に行きたい。
また二人に弟たちがサタンの手に渡ることが内容に守って下さい。キリスト教は外国の宗教ではありません。メシヤを迎える為の普遍的な真理です。殉教者ただ一つだけ不満があります。なぜ私の足と手にイエス様の様に悔いが打ち抜かれていませんか?ただイエス様の生涯に似て行きたい。世界のキリスト教研究者が声をそろえて驚かれるのが日本のクリスチャンの殉教であり、その始めは長崎二十六聖人。
その二十六聖人の殉教を前に、クリスチャン達は逃げもせず、その場に集まってきた。その時代はヨーロッパのキリスト教は殉教する様な事は無い時代でした。その中でも26人が一気に処刑。またその26人に入れなかった方々が私も中に入りたかったのにという方々が沢山いたこと。潔く信仰に命をなげうっている姿。26人だけで無く、その当時のクリスチャンがそのようであった。
秀吉死亡後、徳川幕府はクリスチャン達に対してどうなのか?最終的には廃止、弾圧になっていく。三浦按針も「宣教師は無しで、貿易だけしましょう。」三代徳川幕府が安泰のセレモニーで50人クリスチャン火あぶりの刑から本格的に弾圧。そして檀家制度出発。毎年年貢を納めますが、その時はお寺の証明書は必要でした。明治4年まで続いた。岩倉具視海外使節団の交渉が難航して条件として解禁されるまで。改宗しても6代まで監視され自由を奪われて来た。故にキリスト教徒故に恨みの思いになった霊界がある。ローマ帝国のキリスト教弾圧ではここまでも制度は無かった。キリスト教とだからむやみに捕らえることは無かった。
ペトロ・カスイ岐部(1587ー1639)キリスト教の家庭で育つ。政治情勢厳しく、聖職者になる道を決意。彼を教育した一人が中浦ジュリアンであった。逢えて流刑の道に行かれた。何故だろうか?まだ聖職者では無かったので海外に行ってでも聖職者に成って日本に帰ってくる。ローマまで陸路を渡って、最終聖職者になった。ザビエルの後継者になった。日本へ我がふるさととして帰るのでは無く、宣教師として日本へ行く。
日本がキリストの嫁の様に成って欲しい。彼が最後に見つかったのは岩手県の水沢でした。穴釣り拷問でも一切屈しなかった。世界三大宗教の生活文化も経験し特質な才能を持った方を当時の日本は生かせなかった。
選民の歴史の雛形を歩んだ浦上信徒たち
~浦上信徒潜伏の跡と信徒発見の奇跡~
7代耐えなさい、そしたら黒い船が来て、そこには司祭がくる。それを童歌にして受け継がれてきた。聖職者が250年いない中で、彼らは、「これはカトリックですね」まで解っていた。大浦天主堂での出来事。しかし法的には受け入れられていない。気がつかれていく。浦上4番崩れ(1867)と流刑(1869ー73)。乙女峠の殉教。帰還と慈悲活動(明治4年以降)
ちょうど赤痢が流行り、帰国クリスチャンたちのせいにされた、しかし彼女たちは迫害にめげず、4人の女性から赤痢で無くなった子供達のために生きようと動きだした。そして正しい教えを伝え始めた。どんな迫害があっても自らの使い、そのメンバーから日本で初めて修道女が作られた。その後修道院となり病院に成っていく。
浦上から発信している。10代の乙女たちがそこで教育を受け祈る中、1945年長崎原子爆弾が浦上天主堂の上に落ちた。そして、それ見なさいと周りの方々が声をそろえて言った。8千名のクリスチャンが亡くなった。(彼女たちはこの戦争が終わるなら私たちの命を下げてもいいと祈ってきた)永井隆医学博士。

 

2013.11.12_ishimaru_rec