【礼拝のみ言】

天一国二年天暦閏9月24日(陽暦2014年11月16日)

説教の前に以下の映像上映がありました。
【映像】真のお母様のみ言 ―国家メシア・元老牧会者特別集会 陽11・12
説教タイトル:「 中心人物の使命と責任 」
説教者:入山聖基教会長
 責任分担をよく知らなければなりません。救いの摂理は復帰の歴史であり、復帰の歴史は再創造の歴史です。再創造は原理的にするのです。責任分担を果たさなければなりません。責任分担は私たちの絶対的な信仰です。絶対順応です。これしかありません。自己主張があり得ません。エバは自己主張して堕落したのです。教会に入って不平を言ってはいけません。
皆さんは責任分担を一日に何回考えてみましたか。御飯を食べるときも責任分担、スプーンを握るときも責任分担、お皿を洗うときも責任分担、便所に行ってうんこやおしっこをしながらも責任分担、歩きながらも責任分担を唱えよというのです。
アダムとエバが責任分担というものを考えなかったので滅びたのです。私たちはアダムとエバのように責任を果たせないで堕落する人になってはいけません。復帰して勝利する人になるためには、24時間責任分担を尊重し、考えなければなりません。

「「罪と蕩減復帰」第一章 蕩減・復帰原理の根拠」より

【説 教】

先ほどのみ言の映像で、お母様が、動物の記録映像を見るのがお好きだとおっしゃいました。マダラチョウというお話がありましたが、これは渡りチョウの話です。このチョウは、カナダからメキシコまで、数千キロを、数千万羽が群れとなって助け合いながら渡るのです。それは、子孫を残すためです。子孫を残す事が命よりも大切なのはチョウでも知っていると言うのです。
万物は象徴的個性真理体であり、人間は形象的個性真理体だと原理で学びました。神の創造目的は愛の完成なので、それは、愛を中心としています。つまり、愛とは何かを万物が見せてくれているということです。ですから、万物は愛の教科書なのです。
私たち人間は、万物の姿から愛を学び、そしてそれを自ら実践して、神様に似た「形象」となるのです。それが、人間の責任分担です。復帰摂理においては、この人間の責任分担を果たす人を「中心人物」と言います。今日の時代においては、私たちが「中心人物」なのです。復帰原理の中に出てくる「中心人物」を通じて、私たちが今、どのような立場に置かれているか、考えてみたいと思います。
アダムとエバが、神様の子女という位置に立つためには責任分担を全うしなければなりませんでした。人間は、天使に従って完成するのではなく、神様が示した責任分担を全うして完成するのです。神様の摂理圏において、「中心人物」は無名な人々でした。中心人物は信仰基台と実体基台を立てなければ成りませんでした。それをわかりやすく言うと、信仰基台とは位置の復帰であり、実体基台は愛の復帰です。
アダム家庭においては、アダムの代わりに中心人物になったアベルが神側の条件を立てる中心人物の位置を復帰しなければなりません。これが信仰基台です。次に、サタン側に立つカインを愛して一つにならなければなりません。これが実体基台です。
信仰基台を勝利すると、神はその位置を「祝福」します。神の摂理は常に未来へ前進しますから、過去を「祝福」したのではなく、未来を勝利するように「祝福」してくださったのです。供え物を取られて、神の「祝福」を受けたアベルは、お兄さんカインを愛する次の段階へ向かわなければなりませんでした。しかし、アベルは神から祝福を受けたことを喜び、満足してしまいました。言葉をかえれば有頂天になったのです。そういう人は周りが見えなくなります。
それで、カインの恨みを解放し、愛し一つになるという方向性を見失いました。かえって喜ぶその姿がカインの恨み、嫉妬を増幅させ、殺されてしまったのです。私たち祝福家庭も同じです。一つの条件を立てた、その信仰が取られて神の祝福を受けました。しかしそれはまだ復帰されていないカイン圏の人々を愛し復帰する未来への祝福なのです。しかし、ただ祝福を受けたことだけに満足し、周りを見ないなら、私たちもその時のアベルと同じになるでしょう。
次に、ノア家庭を考えてみましょう。ノアは、アダムとアベルの失敗を蕩減復帰するために、たいへんな苦労をして信仰基台を立てました。それで、「信仰の祖」といわれたのです。しかし、ノア家庭もまた、摂理的勝利家庭となれませんでした。ハムが失敗したからです。
ハムの失敗とは何でしょうか?それは絶対信仰の条件を立てた、父を尊敬しなかったのです。不信や不満、裁きの思いを持っていたのですね。しかし、それは本当に子どもだけの失敗でしょうか?子どもに信仰を伝えられず、尊敬させられなかった親の責任はないのでしょうか?
ノアはその絶対信仰を貫く強い意志を、子どもたちを愛し貫く愛の意志に転嫁しなければならなかったのです。マダラチョウの話にあったように、子孫を生かそうと貫く「意志」こそ、愛の根本です。ノアの失敗は、子女を愛し貫けず、一つになれなかったことによって、親子が決裂し、言葉も通じなくなるほど兄弟が決裂したということです。きっとノアは、「信仰の勝利者」といわれても少しも嬉しくなく、「愛の勝利者」と言われたかったのではないでしょうか。
次に、アブラハム家庭です。アブラハムは、三種の供え物を出来ませんでした。荒い鳥にハトを奪われたというのですが、それはいつでも侵入しようと狙っているサタンを象徴していると言います。つまり、荒い鳥はいつでもいるのです。それから守られるかどうかは、霊的な守りも大きく影響します。
ノアをはじめ、善なる先祖の精誠を忘れ、霊界感謝の心を忘れて、自分だけでやろうとしたゆえに、現実の苦労が大きく感じられて、肉体や精神の限界を越えられなかったと思うのです。私たちも、善なる先祖、霊界の協助に対する感謝と一体感を忘れてはいけません。
最期に、イエス様の時代の弟子たちを考えてみましょう。洗礼ヨハネは、名門家庭の出身です。しかし、この世の名門、名前を捨てなければ、天の名門になれない事を悟って出家した偉大な信仰者でした。それ以外のユダヤ教指導者は、それができなくて、自分の家門と名前を主張してイエス様と対立しました。洗礼ヨハネは一旦それを捨てたのですが、イエス様と一つになる大切な時にそのプライドが出て、侍ることができませんでした。
ペテロは、「主よ、私は獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です。」と誓っていましたが、自分の命が危険にさらされるとイエス様を裏切ってしまいました。ユダは、12弟子の中で唯一学があったといいます。それで自分の考えで天の御旨を測ろうとしました。頭が良い人が危ないです。人間の考えで天の御旨を測ることができるでしょうか?
ここに貫かれる教訓は、自己否定の大切さです。自己否定の反対は何でしょうか?自己主張です。洗礼ヨハネは自分の名前を主張し、ペテロは自分の命を主張し、ユダは自分の考えを主張して、イエス様と一つになれませんでした。神様の前によく自己否定している人は、感謝の心で生活しています。しかし、名前や、環境や、考えなど、自己主張が多くなるほど、それは不平不満となり、恨みの要因となるのです。
今この時は、自己主張する時ではありません。イエス様を十字架にかけてしまった弟子たちは、その後、完全に自己否定しました。悔い改めて、一つとなり、ペンテコステを起こして、ただイエス様の復活の勝利をのべ伝える道を行ったのです。私たちは今、同じ時を迎えていると思います。
先日、本郷苑に初めてお参させていただきました。ただ、お父様に申し訳ないという悔い改めの涙だけがでました。その御前には、自分を主張できるものは何もありませんでした。
その時、思ったのです。「今は、この本郷苑を中心にすべての祝福家庭が一つになる時だ。自分がどうだとか、環境がどうだとか、自分の考えがどうだとか主張しているときではない。そんなことをしていれば、2000年前の弟子たちよりもっと酷い姿になる。」」と。
私たちが目指す道は一つしかありません。真の御父母様が勝利されたことを、全人類に伝えること。本当の親が誰なのかを教えてあげ、祝福に導いてあげること。これが、現代の中心人物であり、神の祝福を受けた「神氏族的メシヤ」の使命と責任なのです。真のお母様を中心に、一つとなって頑張っていきましょう。