【礼拝のみ言】

天一国二年天暦9月17日(陽暦2014年10月12日)

説教タイトル:「 我々は如何にして祝福家庭となりしか 」
説教者:入山聖基教会長
  成約時代は結婚する時代です。アダムとエバが堕落することによって、神様は結婚式をしてあげることができませんでした。したがって、再臨主、真の父母が来て、神様の代わりに結婚させてあげなければなりません。天国は夫婦で入っていくようになっているのであって、一人で入っていくことはできません。イエス様も、今まで楽園に行っていました。すべての聖人も、真の父母がすべて結婚させてあげなければなりません。
 祝福を受けても、相対との関係はあとから結ばなければなりません。先に父母を慕わなければなりません。父母がいなければ、夜も、昼も、世の中もなく、自分の存在価値がないような気持ちを感じることができなければなりません。父母に向かう思慕の心情と欽慕の心情が、みなさんのすべての生活を占領しなければなりません。
 そうしてこそ、天の息子であり、娘であると言えます。そのような生活課程を通したあとに、初めて相対、すなわち妻なら妻、夫なら夫を迎えることができます。そのようにすることなく、どのようにして夫を迎え、妻を迎えることができますか。まずは、父母を心から慕わなければなりません。

「新天聖経 第2篇 真の父母 第三章」より

【説 教】

 私たちが人生を歩んでいますと、様々な経験をしますね。しかし、この世で起こっていることは2つしかありません。それは、生と死の現象しかありません。
この自然界は生まれて始まり、死んだら終わりという時間の流れがありますが、その真理は外的な真理です。愛という観点からみると、そうではありません。生と死は真逆で離れている言葉の様に思えますが、それは堕落したからです。み言によって距離が近づいてきます。愛の観点からみると逆転します。
イエス様は「死なんとするものは生きる」、お父様は、「愛には犠牲が伴う」と言われています。私たちは愛を求めていますが、愛は最初からあるわけではありません。愛は犠牲によって生まれます。自然界を見てみると、生の前に死がありますね。
イエス様が、「人が友の為に死ねるほど偉大な愛はない。」と言われますが、死が先で生が後というのが自然界の真理です。そのような原理原則は神様から出てきました。神様が創造本然の世界をそのような原則によって造られています。
空気、光などは自然界からもらっていますね。ステーキを食べるということは、牛が死んでいるということです。日々、様々なものが死んでくれて、私たちが生きています。それは、神様がそういうお方だということです。神様が死をもって出発しています。神様が犠牲をもって出発しています。
70億全人類を生かすエネルギーと1人を生かすエネルギーはどれくらい違うと思いますか。それは、70億倍ではありません。地球に1人いたとしても70億人いたとしても、まったく同じエネルギーで生かされているのです。その1人が私自身だと思ってください。そのエネルギーを生み出している犠牲が最初にあることを知らなければなりません。
その犠牲の道をされているのが天の父母様であります。天の犠牲を知れば、自分の犠牲が小さい事であると実感できるでしょう。
今回、創立55周年で善進様が語られた“み言”の中で、「私が出会った神様は不自由で、自分の息子、娘と呼べることすらできない神様だった。」という内容がありました。どれ程、不自由な神様でしょうか。そういう風にしながらでも、祝福という道を作って下さった神様に対して、恩返ししてもしきれないでしょう。感謝しても感謝しきれないでしょう。
天聖経に「女性が腹中から赤ちゃんを産むときなぜ大変な思いをするのか。苦痛という犠牲が伴うのか。」「それは、光り輝く愛と出会うためにそうしたのです。」と書いてあります。犠牲によって愛が、生命が生まれてくるのです。それは、神様の犠牲の模擬体験です。
犠牲になるにしても、喜んで犠牲になることが本然の世界です。そこから愛が生まれてきます。たくさん喜んで犠牲になると愛が生まれます。
どうすれば、喜びながら犠牲の道をいけるでしょうか。喜びを得るためには、中心性と方向性が必要です。何のため、対象、目的がなければ犠牲をすることができませんね。子供の為とか、天の為とか。犠牲に喜びがなければ、愛にならず、恨みになってしまいます。自分の犠牲だけ主張すれば恨みになってしまうのです。教会生活、信仰生活では愛を作り出しますが、あえて犠牲になりやすい環境を与えて下さっているのです。
この道に来なければもっと楽だったのに。どれほど幸せだったか。と思うようなこともあるかもしれません。愛の完成の為に、祝福の為に、天国に入る為にという目的を失ったらどうなりますか。神様が一番犠牲になっていることを忘れてはいけません。
歴史の中の驚くべき一つの事実が十字架上でのイエス様です。十字架の死が恨みになっていたら、イエス様は復活できませんでした。「父よ、彼らをお許し下さい」という最後の願いを神様は聞かれました。イサクがアブラハムの願いを察して自ら祭壇に上がったように、イエス様もまた、自ら進んで祭物となられました。そうするしか、人類が生きる道がないことをイエス様は知っておられたからです。
その犠牲の愛によって、私たちは生かされたのです。真の御父母様が行かれた道も、そうした道だったのではないでしょうか?自分が犠牲に耐えられず、たいへんな時は、犠牲の愛によってこの世を創られた神様のことを考えてみましょう。そうした犠牲があってこそ、神様と出会うことができるのです。
10月は祝福と解放の月と言います。お父様の牢獄からの解放記念日(4日以北解放、14日以南解放)と、777双(21日)、6000双(14日)、6500双(30日)の祝福記念日があるからです。お父様の牢獄という死の犠牲と、祝福という生命の誕生が同じ月にあるのは偶然ではありません。そうした真の御父母様の犠牲があってこそ、私たちに新しい生命が与えられたのです。
祝福家庭はみなプライドを持っていますね。それは、祝福の価値が解っているからでしょう。新しい愛と生命と血統に繋がれ、再び生まれたその日をもう一度思いだしてみてください。聖酒一杯を交わして、生まれ変わったことを知っています。しかし、その中身を私たちは知らないのです。その中には、真の御父母様の血と汗と涙の犠牲から生まれた愛が入っているのです。
この世では、家庭の価値が崩壊しています。価値の多様化とか言っていますが、壊れて見失われているのです。これから必ず亡国の危機に立つでしょう。ですから、祝福家庭の価値は、これからますます高まるでしょう。
祝福結婚運動は、救国運動です。私たちは、家庭や子女を大切にしますが、決して家族主義ではありません。自分の親や妻や子どもだけを愛する主義ではないはずです。お父様が教えてくださったのは、「大家族主義」です。他の親も自分の親であり、他の子どもも自分の子どものように愛する主義です。
日本を救い、人類を救うため、これからの後輩たちのために、祝福の恩恵を拡大させていきましょう。