【文鮮明先生自叙伝書写会】

天一国五年天暦12月25日(陽暦2018年2月10日(土))

八王子市学園都市センター(東急スクエア12階)イベントホールにて文鮮明先生自叙伝書写会を開催しました。オープニングにサンデー世界日報「いのちの言葉」2017年12月17日号より編集された「肥沼信次博士」の生涯を紹介する映像が上映されました。続いてエンターテイメント、書写の証しがありました。
証しは、「訓読書写所願成就30日行を通して何か見えない力に守られて導かれ、家族が一つになる」という感動的な内容でした。(詳細は、書写の証しを御覧ください。)
今月のみ言「真の愛は、愛を与え、与えたことさえ忘れる愛」を全体で唱和し、浅川先生の講話になりました。
講話は、本日のテーマである「真の愛は、愛を与え、与えたことさえ忘れる愛」を八王子の偉人であります肥沼信次博士の生涯を中心に語られました。
「本日は、肥沼信次博士の生涯についてお話させていただきます。小田原は北条早雲の像、山梨は武田信玄の像があります様にその地域に根差した方がいます。
肥沼さんのことは日本の方は知らず、知っているのはドイツ人でした。肥沼信次博士は、1908年に八王子で生まれ、7人兄弟の長男でしたから父親は後継ぎにさせようとしていました。しかし、勉強をしている中で人生の転機がありました。
アインシュタインという方がいます。彼が日本に来て講演した中で、人間の価値とは何かということを話されました。それは、”誰かに感謝されることである”ということです。と言われました。あなたが生きてきて感謝ですと言われる人が何人いますか?ということです。人間の価値は自分で決めるのではなく人から決められるものです。”誰かのためにいきてこそ人生に価値がある”と言われたのです。
青春時代にその人生の価値に目覚め、医学の国、ドイツに留学しました。
彼は”念願のドイツに行ける”と意気揚々としているときに、母はその別れを最後の別れだと感じて涙していたことでしょう。愛はいつも時を知らせます。
人は時代に影響を受けます。ドイツはその時代ヒトラーの独裁体制でしたが、国連軍によってドイツが崩壊します。日本政府はドイツからの国外退去を命じましたが、肥沼さんだけがドイツに残りました。ドイツ人を家族のように愛しました。彼は、良心が神様に近かったのではないかと思います。
悲惨なドイツの国民、死を目前とした患者を見捨てて日本に帰ることができませんでした。その中でもヴリーツェンという市は最悪な環境でした。発疹チフスが流行し多くの人が亡くなっていきました。ドイツ人医師が見捨てた中で、日本人医師である肥沼さんは一人で向かっていきました。心のままに向かっていきました。
しかし、状況は悲惨です。志願した看護師は7人いましたが、5人は感染し病死しました。”どうやって救うのですか”と看護師が訴えた中で、彼は、薬以上に”生きる希望を与えることが大切なんだ”と言われました。素手で手を握って、”がんばれ”ということだと言われた。
絶望した人に希望を与えられるのは人だけではないですかと。絶対に医者は、笑顔を失ってはいけないんだと言われました。両親が笑顔を失ったとき、子供は不安を覚えます。それと同じように、医者は患者の前で絶対に笑顔を失ってはいけないんだと言われました。
その中で人々は徐々に希望を持つようになりました。しかし、薬は必要です。薬の調達が困難でした。ソ連の野戦病院にしかありませんでしたが、ソ連は日本の敵でした。ですから薬をもらえませんでした。それでもお願いしました。人の心は国境を越えます。彼は泣いて頼みました。そうして薬を調達してまいりました。
なぜ彼は人を治すことができたのか。彼が手にした一錠の薬に精誠が込められていたからです。その薬を飲んだ人は愛を感じるからなんです。
悲惨な状況の中で看護師は患者がいる部屋のドアを開けて入ることができませんでした。しかし肥沼先生は笑顔で入っていきました。
看護師は、肥沼先生に「あなたの使命はなんですか?」と言われました。その言葉が胸に刻まれました。戦場の中で自分のことしか考えない中で、こんな人がいるのかと自分自身を恥ずかしく思ったそうです。
肥沼先生は、往診を依頼されれば、どんな状況下でも向かいました。愛とは約束を守ることだと、困難を超えて往診に向かいました。往診し持っていた薬を置いていきました。患者は治療費を請求されれば、高額だろう、払うお金がないと考えていましたが、肥沼先生は、お金ことは一言も口にしませんでした。見返りを要求しませんでした。治療費を請求しなかったのです。ただ、”命が救われてよかったね”とだけ言われました。
また、肥沼先生は、自分自身のことを語りませんでした。なぜドイツに来たのかということも語りませんでした。
肥沼先生は、1946年3月、診療中に倒れました。薬を飲ませようとする看護師に対して、拒否し、他の患者に使いなさい、そして、早く患者を看護しなさいと言われました。
病床にある中で家政婦を呼び、”誕生日おめでとう”と言われました。家政婦さんは泣きました。彼女は自分の誕生日すら忘れていたからです。そんな状況下でした。しかし、博士は自分の誕生日を覚えていてくれました。
彼の最後の言葉は「桜が見たいと」つぶやき息を引き取りました。その桜とはどこの桜のことでしょうか?それは故郷の八王子の桜に違いありません。その後、ヴリーツェンは東ドイツに占領され、肥沼先生のことは公になることはありませんでした。
しかし、「精誠を尽くして建てた塔は絶対に崩れない」と文鮮明先生はいわれました。そのように、ヴリーツェン市民は肥沼先生によって救われたことを後孫に言い伝えました。
そして、肥沼先生のお墓に花が絶えることはありませんでした。
神は生きていたといわれました。肥沼先生の姿を見て神様を感じずにはいられないと言われました。肥沼先生は宗教はもっていませんでしたが、神様の愛を持っていました。
ヴリーツェン市長は、肥沼博士のことについて調べたが、わかりませんでした。その中で、日本の新聞に”尋ね人欄”に掲載したところ、その記事を肥沼博士の弟が見られました。そして、市長は弟をヴリーツェンに招待しました。兄は最後に桜を見たかったということを知り、弟は100本の桜の苗をヴリーツェン市に寄贈しました。
人間の生きるべき道を身をもって示してくださった。
文鮮明先生は何を救おうとされたのでしょうか?それは、健康な病人たちです。皆さんの「心」、「愛」は健康でしょうか?
誰かを愛せない心は心の病気です。愛と心の病は死に至る病であり、この病を解放しないかぎり、人類の幸せはありません。その薬がみ言です。その言葉に精誠が込められています。その言葉を読む、聞く、書くことで心の病が修復されていくのです。魂が解放されます。
自叙伝を通しながら心が解放され、幸福になることを願いながら講話を終えていきます。」と語られました。
全体で書写の実践をした後、しあわせってなんだろうを讃美し、最後に浅川先生が祝祷され閉会しました。

 

【 真の愛は、愛を与え、与えたことさえ忘れる愛 】

 真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です。真なる愛は、愛を与えたということさえも忘れ、さらにまた与える愛です。私は生涯、そのような愛に酔って生きてきました。愛以外には、他のどのようなものも望んだこともなく、貧しい隣人たちと愛を分かち合うことにすべてを捧げてきました。愛の道が難しくて涙があふれ、膝をへし折られても、人類に向かう愛に捧げたその心は幸福でした。今も私の中には、いまだすべて与えきれない愛だけが満ちています。(自叙伝5~6ページ)

愛の本質とは何でしょうか。愛の本質とは、人に何かをしてもらおうとする思いを捨てて、人のために、全体のために先に与えて、為に生きることです。与えても、与えたという事実そのものを忘れてしまい、絶えず与えるのが愛です。それは、喜んで与える愛です。母親が子供を胸に抱いてお乳を与えるときに感じる喜びの心情がまさにそれです。(自叙伝220ページ)

  

  

  

 

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